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長崎の信徒発見と聖ピオ十世会2

今度はルルドでカトリック信徒を「発見」した話である。

ある司祭がルルドに巡礼中、聖ピオ十世会が関係するドミニコ会のシスターらに率いられた女子児童や女子生徒の一群を見かけ、その身なりがきちんとしていることに感銘を受けた。

後日、彼女らが聖堂の前で集合しているのを見かけ、中ではトリエント典礼の準備がされているのが分かると、急いでホテルに戻り、ビデオカメラを取ってきた。そして、ミサの様子を撮影しながら、生徒たちの敬虔な姿やラテン語の聖歌に、またしても感銘を受けたのだ。

その司祭が自身のブログに写真とビデオを載せている(Multicultural Youth Mass at Lourdes)ので、興味があったら訪問してみるといい。カトリック信徒を「発見」できるかも知れない。

コメント一覧

A FOX URL 2010年03月18日(木)01時17分 編集・削除

アヴェマリア!

現代のカトリック信徒発見のニュースはインターネットであっという間にひろがってゆくのですね。
ネットサーフィンでカトリック信徒を探していたらここにたどり着きました。(笑)

この記事とは関係ない記事のレスですが...
>スパゲティー大盛りでなぜいけないのか
30%増量であれば、たとえば”少なめ”とか、いわゆる”小ライス”は、30%減量と言ってどんな反応か試してみたくなりました。

ax 2010年03月25日(木)15時18分 編集・削除

カトリック信者は服装じゃないでしょうね。
身なりもちゃんとしていたほうがいいが、それだけではない。

ピオ十世会の支持者は、神への信仰に熱心なあまり、身近な人への人助けは軽視する人が多すぎます。
あの世がよければ、この世はどうでもいいのでしょうか。

でも、それは現代ではカルトの論理では?

管理人 2010年03月25日(木)21時25分 編集・削除

>カトリック信者は服装じゃないでしょうね。
>身なりもちゃんとしていたほうがいいが、それだけではない。

司祭がカトリックらしさを感じた要素は3つ紹介しました。服装とミサ中の態度とラテン語の聖歌です。後者2つを見落とすほどの長文を書いたつもりはありません。どうして「それだけではない」と指摘するのでしょうか?

>ピオ十世会の支持者は、神への信仰に熱心なあまり、身近な人への人助けは軽視する人が多すぎます。

「多すぎます」とありますが、まずサンプルの総数は何人ですか?

そのうち、「身近な人への人助けは軽視する人」は何人ですか?

そのように判断した根拠は何ですか?人助けを軽視するような発言ですか?それとも、人助けの話題が少ないからですか?

私も人間なので、人の賞賛を求めて自分の善行を日記に書いてしまうことがあります。でも、単なる自慢話になってしまわないよう敢えて書かないこともあれば、忘れてしまって書かないこともあります。そのような事情があっても「軽視」と言われなければいけないのでしょうか?

>あの世がよければ、この世はどうでもいいのでしょうか。

>でも、それは現代ではカルトの論理では?

こちらが言ってもいないことを、こちらの主張として勝手にでっち上げないで下さい。

「いいのでしょうか」と質問しておきながら、その回答を得る前に、「いい」という前提で質問するのはおかしくないですか?

私だったら、「でも」の代わりに「もしそうだとしたら」を使いますけどね。