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司祭はいつどこでどのように「転向」するのか2

この日記では、正平協の問題を、司祭職という観点から考えている。要は、現在神学校で教えられている司祭職そのものに問題があって、それが忠実に実践されているがゆえに、正平協の活動が現象として顕れている、ということである。

今の日本のカトリック教会で司祭職がどのように捉えられているのかは、例えば司祭叙階式の説教を読めば、ある程度分かるだろう。以下は、少し前のイエズス会司祭叙階式説教からの引用である。

現代の荒れ野、現代の砂漠に福音をのべ伝え喜びの便りを告げ知らせるために司祭は叙階されます。

これが現在の司祭職である。ミサ聖祭を捧げる祭司としての要素はほとんど後退している。かくして、福音宣教の名の下に、教会の外に目を向けてばかりの司祭ができあがるのだ。

果たしてこのような司祭たちは、何をきっかけにして伝統的司祭職に目覚めるのだろうか。正平協の分科会に乗り込んで罵声を浴びせたらいいのか。イグナチオ教会の前で抗議行動をすればいいのか。それともただ憂慮してみせればいいのか。

唯一ではないにしても有効なのは、伝統的修道会の司祭と交流の場を持つことであろう。常に修道服を着ている姿を見るだけでも何か感じるところがあるはずだ。

ちなみに、マニラにある聖ピオ十世会の教会には、これまで何人かの司祭や助祭が訪れて、トリエント・ミサの捧げ方を学んだそうである。このような司祭たちの教会なら、きっとグレゴリオ聖歌や跪きが拒まれることはないだろう。

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