記事一覧


神父の放言「母なる教会ー聖ピオ10世会について」について2

それでは、母なる教会ー聖ピオ10世会についてから、気になる記述を少しずつ抜き出していこうと思う。

聖ピオ10世会の今の立場は、「公認されていないカトリック団体」ということだが、それが一番簡潔な表現だと思う。

「公認」という言葉で何を言わんとしているのかはっきりしないので、然りとも否とも言えないが、もしも教会から修道会として認可されてないという意味であるならば、それは間違いであるということを指摘しておく。

詳しいことは小野田神父様が既に書いている(【質問】聖ピオ十世会は教会認可の正式な修道会と思ってよいか)のでそちらを参照していただこう。

ついでに、教会法を無視して聖ピオ十世会の認可を取り消そうとした一連の悪巧みのことも広く広く知ってもらいたいものだ。

related page(s) 聖ピオ十世会

コメント一覧

未承認 (02/10 11:56) 編集・削除

管理者に承認されるまで内容は表示されません。

未承認 (03/28 16:17) 編集・削除

管理者に承認されるまで内容は表示されません。

未承認 (06/07 16:12) 編集・削除

管理者に承認されるまで内容は表示されません。

未承認 (10/30 10:16) 編集・削除

管理者に承認されるまで内容は表示されません。

神父の放言「母なる教会ー聖ピオ10世会について」について

昨日、この日記が属するブログランキングのエントリー中より、母なる教会ー聖ピオ10世会についてという記事を見つけた。

指摘したいこと、反論したいこと、カトリック信徒として聞き捨てならないことがいくつかあるのだが、ここ3カ月のうちに日記で書いたばかりのことを繰り返さねばならないかと思うと少し気が重い。

とりあえず今日のところは「宣戦布告」ということで。

related page(s) 聖ピオ十世会

コメント一覧

未承認 (05/25 03:16) 編集・削除

管理者に承認されるまで内容は表示されません。

未承認 (07/07 01:46) 編集・削除

管理者に承認されるまで内容は表示されません。

未承認 (10/20 14:48) 編集・削除

管理者に承認されるまで内容は表示されません。

司祭の手

昔々、味噌のテレビコマーシャルで「ママの手は魔法の手」という歌が流れていた。料理も裁縫もできる母親の手を、小さな子どもが驚きと尊敬の念とをもって「魔法の手」と呼ぶ、という内容だ。どうせ大人が書いた歌詞ではあろうけれども。

さて、カトリック信徒にとって司祭の手とはいかなるものであろうか。

司祭叙階式において、受階者の両手は司教から聖香油を塗られて聖別される。そして初めて、パテナとカリスとに触れるのである(Priests for Tomorrow - Part 6 参照)。

また、どこでも行われているわけではないが、叙階直後の司祭の手から祝福を受け、その手にキスをする習慣もある(Priests for Tomorrow - Part 7 参照)。

しかしながら、司祭の聖なる手を相対的に貶める行為がカトリック教会に蔓延している。それは、手による御聖体拝領である。

そのようにして、聖別されてもいない手で御聖体をペタペタペタペタペタペタペタペタ触る信徒が、司祭の手を特別なものとして見るはずはないのである。

related page(s) カトリック典礼

知らない素振りをする司祭たち

エクレジア・デイ傘下の修道会では、昔の式次第による堅振の秘蹟を地元司教に執行してもらっているものと思うが、条件付きの堅振は行っていないようだ。

確かに、「新しい式次第での堅振は有効性が疑わしいので、条件付きで堅振を授けてほしい」とは言いにくいであろう。先の秘蹟を授けたのが当の司教であればなおさらである。

従って、無効の可能性を否定できない堅振の秘蹟を既に「受けた」信徒は、いつまでも疑いが残るままになってしまう。後からやってきた者は確実に有効な堅振を受けられるというのに。

聖ピオ十世会を離れて今は聖ペトロ会などに所属する司祭らは、現行の堅振の問題点(質料も形相も、ともすると意向も)について熟知しており、かつては信徒にも説明していたはずだが、一体どのような思いで沈黙しているのだろうか。

また、この件で信徒より質問を受けた場合には、どのように対応しているのかも気になるところだ。

related page(s) カトリック典礼

「公会議の精神をねじ曲げた者が悪い!物語」はもう捨てよ

第二ヴァティカン公会議後のカトリック教会の混乱について、公会議の精神を標榜して好き勝手なことをした者たちが悪いということにして、本来の「公会議の精神」に立ち返るべきだ、という議論があるが、果たしていかがなものであろうか。

そこで、このことを考えるために資料を用意した。次の年表は、聖ピオ十世司祭兄弟会関係の年表から抜粋して若干の編集を加えたものである。

1945年 ローマのアンジェリクム教皇庁立大学で、レジナルド師、ガリグ・ラグランジュ師、ラブルデット師などが、イエズス会士のダニエルー師、ド・リュバック師らの新しい神学に対抗して伝統的な神学を擁護する。(-1950年)
1950年 回勅『フマニ・ジェネリス』が発表される。ド・リュバック師などを暗に排斥する。聖庁はコンガール師の著作を危険視する。
1954年 聖庁はシュニュー師が教えることを禁止する。
1952年 2月以降、コンガール師のすべての著作はローマの検閲を受けなければならなくなる。ド・リュバック師の全著作もローマの検閲命令を受ける。
1954年 聖庁はカール・ラーナー師にミサの共同司式について沈黙を命ずる。
1962年 6月7日、聖庁はラーナー師の全著作を検閲することを決定。

ここに挙げられただけでも、何人ものリベラル神学者たちが、教会から異端の嫌疑をかけられ、制裁を受けていたことが分かるであろう。

しかし、これらの「前科者」または「容疑者」たちは、あろうことか公会議の顧問として迎えられ、その期間中に多大な影響を及ぼした。公会議の精神とは、彼らの精神と言っても過言ではない。いつまでこんなものを擁護し続けるつもりなのか。

召命の増え続ける神学校では何を教えているのか

聖ピオ十世会がアメリカに持っている聖トマス・アクィナス神学校が、移転プロジェクトのための新しいウェブサイトを立ち上げた(New Seminary Project)。動画もあるので後で見てほしい。

今どき神学校に若者が押し寄せて手狭になるというのは、世界でも珍しい現象だろう。

だからといって特別なことをしているわけではない。カトリック教会が第二ヴァティカン公会議の前までずっと教えてきた司祭職を、今もそのまま教えているだけである。

ここの神学生は、修道服とローマンカラーを常時着用し(着衣式後)、毎日毎日トリエント・ミサに与り、侍者を務め、ロザリオを唱え、聖務日課を唱え、グレゴリオ聖歌を歌い、ラテン語もトマス哲学もしっかり学び、そして近代主義の誤謬に反対する誓いを立てて司祭に叙階されていく。

こんな記事ひとつで日本から召命が出るということもないであろうが、「自分の小教区の若者がこのような神学校で召命を試してくれたら」と願うカトリック信徒が少しでも増えたら幸いである。

related page(s) 聖ピオ十世会

荘厳司教ミサはラテン語ミサの普及につながるのか

先週の土曜日にカトリックアクション同志会主催による荘厳司教ミサが行われたようである。例によって出席はしていない。

さて、参加者がこのミサに満足しておりまた来年の開催を待ち望む、ということであれば、主催者はその希望によく応えているので、あまり言うことはない。

とはいえ、こういうミサがもっと増えて欲しいという声も常にあり、その思いは満たされていない、と指摘しておく必要はあるかと思う。

勝手に労働組合に例えるならば、年に1度の荘厳司教ミサを除いては、これといって勝ち取ったものはなく、どこかの小教区がラテン語ミサを行うための交渉の後ろ盾になっているようにも見えない。

もちろん、会には会の趣旨があるのだから、「同志会は労働組合のようなものではない」という反論があっていい。

しかし、もしもその通りだとしたならば、そういった働きも望めないわけで、もっと多くのラテン語ミサを希望する人にとっては何とも寂しい話であろう。

related page(s) カトリック典礼

おはようからおやすみまで暮らしを見つめるのは

自分でも満足に読み返せていない本を、人に勧めていいものかどうかとは思うが、良書だという確信だけはあるのでここに紹介する。

それは、All About the Angels (TAN Books) という、守護天使についての本である。これを読めば、天使がいかに身近な存在かあらためて気づかされることであろう。

さて、守護の天使の祝日も残りあとわずかというこんな時間に日記を書いているのは、何かに突き動かされてのことであろうか。

コメント一覧

マリア (10/03 09:04) 編集・削除

アヴェ・マリア!!♪♪

幼きイエズスの聖テレジア様の祝日!♪

おめでとうございます♪

すみません、守護の天子様の御本は、英語版のような。。日本語のは出ていますか?

お時間のあります時に、どこかにお返事頂けると嬉しいですが。。

デオ・グラチアス!!

管理人 (10/04 06:20) 編集・削除

よく調べたわけではありませんが、日本語版は存在しないと思います。

渡部昇一氏が第一志望校に行けなくなってしまった理由

上智大学名誉教授である渡部昇一氏は、上智大学の卒業生でもあるのだが、本来の第一志望は東京高等師範学校(後の東京教育大学で、現在の筑波大学)であった。

といっても、受験に失敗したということではない。その年に限って私立と国公立の試験時期にずれがあったため、まずはいわゆる「腰掛け」として上智大学に入学し、2カ月後に本命の入学試験を受けるつもりでいたのである。

ところが、最初の時間からかなり程度が高くて、「ああ、これが大学というものか」と、ほんとに大学に入っているような感じがした。それから、ライエル先生は日本語を使わないので、全部英語で説明するのですが、何もわからない。しかし、一生懸命やりました。

また日本人の先生も、教科書がないからといって、初めは「リーダーズ・ダイジェスト」、その次がブランデンの東大講義ですよ。イギリスの文化使節として来たエドマンド・ブランデンが、東大で大学の先生たちを集めて行った講演集が、大学一年生の教科書になった。えらく高級なことをやるな、と思ったけれども、ぼくの猛烈な知識欲は完全に満たされて、もう第一志望に行かないと決めちゃったわけです。

この話はかなり前から馴染みだったのだが、最近になって、聖ピオ十世会のミサに初めて行ったときの感覚に似ていることに気が付いた。

あのときはトリエント典礼についてほとんど無知で、ラテン語の基本的な応答さえ出来ず戸惑うばかりだった。それでも、修道服を着た司祭や、グレゴリオ聖歌を歌う信徒ら、カソックを着て奉仕する侍者などに、「ああ、これが本来のカトリックというものか」と圧倒され、約半年後にはもうノヴスオルド・ミサには与らないと決めたのである。

カトリック教会に蔓延する創価学会的メンタリティ

カトリックから見て仏教というのは異教でしかないので、どの宗派が正しいとかいかにあるべきかとか、そのようなことは本来ならばどうでもいいはずである。

ところが、ある人たちの存在を知って、どうしても興味を抱かずにはいられなかった。きっかけは、世田谷広宣部N君徹底破折 13 本尊義・変節したのはまさに創価という動画である。

彼らの主張は、最初は正しかった創価学会が第三代会長のころから変節してしまったということだ。もちろん、その三代目に心酔する学会員や昔を知らない学会員からは睨まれ非難されている。

この構図は、カトリック教会が第二ヴァティカン公会議で変節したと主張する聖ピオ十世会が、公会議を支持する信徒や公会議前を知らない信徒から睨まれ非難されるのと、結構似ているのではあるまいか。

ページ移動