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一カトリック信徒が観た映画「マリア」3

「理由は次回」とは書いたものの、良く読み返してみると既に半ば書いてしまっているような気もする。それにクリスマスもとっくに過ぎてしまった。しかし、まだ降誕節でもあるし、とにかく続けよう。

私が映画を観る前から頭に入れていたカトリック教会の聖伝を、大ざっぱに要約するとこうなる。マリアは終生処女を誓っており、ヨゼフはその意志を尊重した上で婚約した。従って、「男を知りません」というのは、これまでも、これからも男を知ることはない、という意味である。「私は男を知ることのない女です」と言い換えてもいいかも知れない。あるいは、英語の時間に習う「現在の習慣」と言えば分かり易いだろうか。

しかし、スクリーン上のマリアはどこにでもいそうな普通の少女として描かれていた。しかも、簡素な婚約式のシーンが挿入されることで、結婚を控えていることを、観る側は否応なく意識させられる。なのに、この若い娘は「どうしてそうなるのですか」と、将来の妊娠の可能性を疑うのである。これは不自然だと感じざるを得なかった。

よく考えてみると、この不自然さは、福音書を読んだだけでも気付くことができたかも知れない。実際、気がついている人もいるようだ。だが、カトリックの伝承を知らないか、あるいは知っていても認めないために、聖書の記述に疑いを向けて解決しようとする例が散見される。やはり、マリアの聖性を強調するカトリックの解釈の方が、聖書本文をそのまま読めて無理がないように思う。

あれこれ言っても、映画は所詮映画でしかなく、聖書の代わりにはならない。それでも、もう少し出来が良かったらとついつい思ってしまった。

一カトリック信徒が観た映画「マリア」2

現在上映中の映画「マリア」について、付け足したいことがある。ここで取り上げたいのは、天使ガブリエルがマリアに現れて「あなたは身籠もって子を生む」と告げたシーンである。ただし、映画の字幕はいちいち覚えていないので、セリフはバルバロ訳聖書に頼った。

普通、婚約中の女性がこのように言われたら、結婚後に夫との間に子どもができるという意味に解釈するだろう。驚くというより、「まあ、そうなるでしょうね」としか言いようが無いのではないだろうか。

実際、私はこのシーンを観ているときに、反射的にそう思ったのである。これは、映画の描くマリアの人物像(あまり聖女らしくない)と話の展開に影響された、非カトリック的な反応だったかも知れないことを告白しておく。

しかし、そのように乗せられてしまったにも関わらず、否、乗せられてしまったからこそ、「私は男を知りませんがどうしてそうなるのですか」という反応が、一層不自然に感じられたのである。その理由は次回、ということで。

一カトリック信徒が観た映画「マリア」

イエズスの生誕を描く映画「マリア」を観てきた。結論から言うと、それほど好い映画ではなかった。少なくともカトリックの立場からは。もしかすると、プロテスタントでもあまり満足できないのではなかろうか、と余計な心配さえしてしまった。

実を言えば、そういう結論が出ることも最初から分かっていた。「パッション」のように監督がカトリック信徒で、カトリックの聖伝に基づいた映画を製作しようとした、というような話は一切入ってこなかったからである。では何故そのような映画を観たのか、と思う人がいるだろう。

一つには、本物であろうがセットであろうがCGであろうが、当時の様子を視覚的にいくらか把握して福音書を理解する助けとしたかったからである。もう一つの理由は、自分は聖家族に関するカトリックの聖伝をある程度知っているし、また書物によって確認できるので、どれだけ問題を含んだ映画であったとしても、それほど影響は受けないだろう、という変な自信があったからだ。

それで、映画を観たその日、予定通りにジュゼッペ・リッチョッティの『キリスト伝』を手に取り、映画のストーリーと重なり合う部分を読んだ。何度か目を通している箇所だが、映画のシーンが頭に入っているせいか、これまでになく良く理解できたように思う。続いてカタリナ・エンメリックの『聖家族を幻に見て』も読み返しておきたい。ともあれ、個人的にはいくらか役に立ったと言えよう。

何の未練もなく

本家サイトの中から、長く放置していて、もう更新する気のない2つのページを削除した。もはや存在していないので、どのページかということも敢えて書かないが、もしかしたらリンクなど跡が残っているかも知れない。それは、気がついたときにでも修正しておこう。

コメント受付中

突然だが、思うところがあって、記事にコメントを投稿できるようにした。コメントは、どれだけ過去の記事につけても構わないが、なるべく記事内容に沿ったものを願いたい。

さて、これまで「思うところ」がなかった理由は何か。荒し対策が面倒というのも一つだ。コメント欄のついたブログや日記は、掲示板とほとんど変わりがなく、かなり無防備である。読者の少ないこの日記では杞憂かも知れないが、用心するに越したことはない。一応、管理者が承認してから公開される設定にしておいた。

それから、小さなことのようで、案外これが一番かも知れないと思う理由がある。普段から日記本文を常体で書いているのに、コメントへの応対は敬体となると、態度を急変させているかのようで、どうも抵抗があったのだ。

実際には、そういうやり方でブログを運営している人も少なからずいる。二つの文体を用いることは、私が思うほど不自然には思われないかも知れない。とりあえず、見切り発車である。