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「待降節の祈」について

もう待降節なので、公教会祈祷文より「待降節の祈」の本文を打ち込み、ルビを振る作業をした。複数部プリントアウトして、ミサの後に共に唱えるためである。

この祈りは、典礼暦の中でもこの時期にしか祈らないので、とても慣れ親しんでいるとは言い難い。幾度か「~し給え」「~し奉る」という言い回しが出てくるが、自分が心からそれを望んでいるかと言えば、あやしいどころではない。

この祈りに込められた信仰を自分のものにするためには、待降節の主日ごとに唱えるのでは足りない。待降節の間毎日唱えるのが理想だし、それが普通にできる人もいるだろうが、せめて昨年よりも多く、を心がけたい。

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猫舌とラテン語2

先日「ねこじた」から cogita というラテン語を連想したのは、聖霊降臨後最終主日の入祭誦にそのような歌詞があったからだと何となく思っていた。

しかし、調べてみると Ego cogito cogitationes pacis ... と、微妙に形が違っていた。これも役に立ったには違いないが、どうもここから直接ということではないらしい。すると、どこから cogita の形を得たのか。

ほどなく、Adspice Domine de sede sancta tua, et cogita de nobis. という歌詞を思い出した。これは、メンデルスゾーン作曲の Vespergesang という合唱曲の冒頭部分である。このラテン語がどこから来ているかは、まだ調べていない。

猫舌とラテン語

聖ピオ十世会のミサに集う信徒たちと食事をしていたときのことである。季節柄、熱い飲み物がその場にあったせいか、誰かが猫舌であるという話になった。

そのとき、私の耳は「ねこじた」という音を捉えたわけだが、その後ろから3文字の「こじた」から、cogita というラテン語をふと連想した。そして、頭の「ね」に対しても ne というラテン語があることに気が付いた。しかも、ne cogita は何やら意味を成しそうではないか。

そこで、小野田神父様に質問してみると、「考えるな」という意味になるとのこと。

しかしながら、日本語で考えても、その言葉を発するのに適当な場面が思い浮かばなかった。これでは、猫舌と ne cogita をかけた小話は、すぐにはできそうもない。できたとしても、誰が分かるだろうか。

コメント一覧

Fr Thomas Onoda URL (12/02 16:40) 編集・削除

アヴェ・マリア!

こんにちは!
  「ねこじた」という音の「こじた」から、cogita というラテン語をふと連想したとのこと、ラテン語のいろいろな単語を覚えて小話を作りたいと思うくらいまで慣れてきましたね。大変うれしく思います。

 たしかに、ne cogita は何やら意味を成しそうです(ne ~ は否定の意味の副詞で cogita が「考えろ」という命令形ですから)が、実は、厳密なラテン語文法には適っていません。何故なら、ne の後には接続法が来なければならず、例えば ne cogitet (=彼は考えないように)というような形になるからです。(このことを言おうとして言いそびれてしまいましたので、ここでお知らせします。)

 そこで、猫舌と ne cogita をかけた小話は、小辞の ne ではなく、単語の最後に -ne が来るような単語を使う方がよいでしょう。例えば、今、ふっと思いつくままに書くと、Domine cogina(主よ、考え給え)とか、In ejus nomine cogina(彼の名前において考えよ)とか、De igne cogita(火について考えよ)とか、De pane cogita(パンについて考えよ)云々・・・。

 「知的生活の模倣」さんの「猫舌とラテン語」という記事から、Intellectualis Vitae Imitatione cogita!(知的生活の模倣によって考えよ!)という訳で、考えてみました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

TAN Books が身売り

カトリックの良書を多数出版してきた TAN Books だが、近年は経営が思わしくなかった(TAN Books その後参照)。最近は、信仰の面であまり望ましからぬ人物が買収するとの噂もあり、少しばかり心配していたものだった。

昨日、その TAN Books がついに身売りすることになった。身売り先は、Saint Benedict Press という出版社である。この名前は聞いたことがなかったが、扱っている本を見る限りでは、そこそこ保守的な印象である。今後、数百点を数えるタイトルがどうなるのか気がかりではあるが、最悪の結果は免れたのでひとまず安心している。

拉致問題と政府と国民

今日は横田めぐみさんが拉致されて31年目となる日である。また、この日、拉致被害者市川修一さんの母トミさんが、息子と再会することがかなわないまま亡くなった。

今日にも明日にも、各方面から政府は何をしているのだ、という反応が出てくるだろう。しかし、このセリフを言う資格のある人もいれば、ない人もいるはずだ。そこは注意深く観察しておきたい。

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正平協問題の根本はどこにあるのか4

これまで紹介したリンク先の文書を面倒がらずに読んだならば、ミサと司祭職とが関わっていることは了解されたと思う。これについては典礼秘跡省局長のランジス大司教も認めるところである。再び小野田神父様のブログから新しいミサについて、典礼聖省の新しい事務総長ランジット大司教様のインタビューを参考にされたい。

ところで今回は、理解を助けるための資料を紹介しようと思う。聖トマス・アクィナス神学校のサイトで公開している Liturgical reform というフライヤーである。ミサや司祭職など、項目ごとに図式化してあり、とても分かりやすいので是非利用して欲しい。

実は日本語訳も用意してあるが、小野田神父様が自由奔放に訳している部分に違和感を覚えるかも知れない。それでも十分役に立つはずである。

正平協問題の根本はどこにあるのか3

かつて、カトリック司祭職の概念はどうなっているのかという雑文を書いた。司祭とはまず奉仕者である、と教え込まれた司祭たちの今後の働きについて心配したものである。

この懸念は、自らをまず労働者と規定した学校教師の有りようを憂える人ならば、容易に共感してもらえるものと思う。

正平協問題の根本はどこにあるのか2

前回の正平協問題の根本はどこにあるのかでは、司祭職からの逸脱ではなく、現在の司祭職そのものが問題であることについて触れた。政治的発言といった現象に振り回されがちだが、やはりその原因の方に目を向けたいものだ。

もう一つ資料を付け加えるならば、ルフェーブル大司教の公開書簡「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ」の第7章新しい司祭職を強く推したい。新しい司祭職がなぜ政治的活動へと結びついていくのか、きっと理解の助けになるはずである。

もう一人の藤田さんも「拉致濃厚」に

最近、特定失踪者調査会が、新たに「拉致濃厚」として32人を1000番台リストに追加した。その中に藤田慎さんの名前があった。特定失踪者藤田進さんのおじにあたるそうだ。

藤田さんらの親族とは、拉致問題を考える川口の会でいつも一緒に活動しているのだが、進さんの他にもう一人失踪者がいるという話は聞いた覚えがない。よく考えてみるとかすかに聞いたような気がしないでもないが、そうだとしてもすっかり忘れてしまっていたので、この発表には驚いている。

この件を今度の署名活動に反映させようにも、もう明日のことであり、そう時間はない。できるだけのことはしたいと思うのだが。

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