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神の恩恵によりカトリック信者であるならば

自分がトリエント・ミサに出会い、巡回聖堂とはいえ聖ピオ十世会のミサに与ることができるのは、カトリックの信仰生活においてかなりのアドバンテージであるのは確かだ。

しかし、公教要理にもある通り、神の恩恵によりカトリック信者であるならば、カトリック教会伝統のミサに与ることができるのもまた神の恩恵によるのである。

それとて、選ばれたのではなく、「にもかかわらず」与えられたものかも知れないのだから、驕ることのないよう気をつけたいものだ。

確かに日本があぶない

これまで民主党のポスターといえば、キャッチフレーズがどことなく嘘っぽいというのが恒例であった。例えば、「国民の生活が第一」などは、すぐさま「どこの国の国民か」「(中国)人民の間違いではないか」と言いたくなるような代物だった。

ところが、過去に使われたポスターで、今頃になってその文句がフィットするようになったものがある。当時もそのような読み方は可能だったのだが、今が一番しっくりとする。

そのポスターとは、代表選を前にして最も話題の議員を大写しにしたこれのことである。きっと見覚えがあるだろう。

浅草サンバカーニバルにもの申す

今週末にも浅草でサンバカーニバルなるものが開催される。

そのサンバはいいとして、「カーニバル」の名称は適当とは思えない。というのも、本来の謝肉祭が行われる時期から約半年もずれているからである。

これを「祭り」や「フェスティバル」に替えても差し支えは無いように思うが、楽しんでやっている人たちは、そのような議論をきっと好まないだろう。

自分の読者じゃあるまいに

ブログや掲示板を訪問したとき、コメントやレスポンスに長い長い投稿を見かけることが多々ある。

これがブログ主や掲示板管理者の書いたものなら、いくらか我慢できる。コメントをも含めてその人の文章を読むために訪問しているからである。ときには、たっぷり読めるのでむしろ歓迎という場合もあるだろう。

これがゲストの「大演説」となると、人にもよるし、内容にもよるのだが、大抵はうんざりさせられる。読まない、相手にしない、という対抗手段があるものの、それでは当人に何も伝わらない。それどころか「何も反論できないのだ」と増長することさえあるから厄介だ。

あのグレゴリオ聖歌をもう一度歌ってはどうか

昨日は聖母被昇天の祝日ということで、この日ばかりは一部のカトリック教会で、普段歌わないグレゴリオ聖歌を歌ったのではないかと思われる。

それがミサ通常文を Cum jubilo で歌ったということであれば、来る聖マリアの汚れなき御心の祝日にも歌ったらよいだろう。もしもそのような予定がないなら、すぐにでも聖歌隊の指揮者に話を持ちかけるべきである。

related page(s) グレゴリオ聖歌

スピードラーニングで英会話はできるようになるか

最近やたらと宣伝が目立つ「スピードラーニング」という英語教材がある。あれだけ広告を打てば、もはや知らない人の方が少ないくらいだろう。

さて、ただ聞き流しているだけで英語が身に付くというような宣伝も疑問だが、特に気になったのは、それが「幼児が言葉を覚えるのと同じ原理」だという説明である。

確かに、赤ん坊や幼児はまず聞くことから入って短期間のうちに語学を習得する。しかし、それは「聞き流し」のような散漫なものではなく、むしろ親の話す言葉を懸命に聞いて真似ようとする集中学習に近いものではあるまいか。

この教材を使って成果を挙げる人がいたら、おそらく宣伝文句とは違って、徹底的に聞き込み、話す練習を積んだ結果だろうと思われる。

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一番悪いのはアメリカではないのか

本日8月6日は広島に原爆が落ちた日ということで、追悼式典や各種集会が行われたことだろう。

追悼は大切なことであるし、反核も反戦もそれなりに必要とは思う。だが、アメリカ軍の原爆投下による一般市民の大量虐殺は重大な戦争犯罪である、という一点がもっと強調されてもいいのではないだろうか。

典礼破壊を批判するビデオの紹介

昨年ほんの軽く紹介したビデオ What We Have Lost の動画が、現在 Google ビデオで視聴できることが判った(What We Have Lost... and the Road to Restoration)。

当時もインターネット上にはあったが、YouTube ではぶつ切りだったり、また別のところではファイルサイズが大きすぎたりしたために不便があった。今回紹介するのは、その点では程良いのではないかと思う。

それでもオリジナルの DVD をご所望ならば、注文は In the Spirit of Chartres Committee まで。

related page(s) カトリック典礼

召命は「われらのうちより」2

前回、召命は「われらのうちより」出るものという気構えを持って、共同体のあり方に注意するようにと書いた。

それは召命一般についての話であったが、特に司祭の召命について言えば、「侍者のうちより」出るものだという認識が必要である。

考えてみれば当然のことで、侍者の務めに熱心でない者、まして経験のない者が、一生涯ミサ聖祭を捧げる司祭を志すということは考えにくい。司祭の召命は、侍者として司祭の一挙手一投足を見つめていた者のうちから生じるのが普通だ。

したがって、少年や若い男性信徒が侍者の練習も始めず、いつまでも会衆としてミサに与っているような状況があるならば、責任者に改善を促す必要があるだろう。もちろん、相応しい男性がいるのにもかかわらず女性に侍者をやらせているようなのは論外である。

related page(s) カトリック教会

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彦左衛門 Eメール (07/28 20:42) 編集・削除

仰るとおり、全面的にご意見に賛成。