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小野田神父様も教皇ベネディクト16世に賞賛されていい

アド・リミナでヴァティカンを訪れているフィリピンの司教団が、避妊などに関するカトリック教会の立場を強く擁護していることで、教皇ベネディクト16世よりお褒めの言葉を頂いたそうである(Pope praises Filipino bishops for stands against contraception, death penalty, divorce)。

この賞賛は、「出産健康法」に反対するロザリオの十字軍(1 Million Rosary Crusade)を、フィリピンの枢機卿や大司教をも巻き込んで展開している小野田神父様にも与えられて然るべきだとは思うが、そこまでの情報は上がっていないであろうことが残念だ。

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典礼の季節により平日の等級が上がり下がりする謎

いよいよ待降節に入った。この時期の典礼カレンダーを見ていると興味深いことがある。

待降節第1主日を境に、それまで4級だった平日は3級に上がる。そして、待降節第4主日を境に平日は2級となる。まるで、御降誕が近づくにつれて、等級の低い祝日をブロックしているかのようである。

ただ、実際にはブロックされている祝日は皆無である。この時期は毎年待降節と重なるため、祝われる可能性のない祝日は最初から組み込まないでおいたのだろう。

とはいえ、典礼暦におけるこういった平日の取り扱いからも、御降誕に対する教会の意気込みのようなものが感じられて面白い。

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会衆がいなくても捧げられるミサ聖祭

オーストラリアの聖十字架神学校を初めて訪問した年は、クリスマスと司祭叙階式に出席した後、メルボルンへ移動し、そこの教会にしばし滞在することになった。

そこは中規模くらいの教会で、ミサ聖祭の侍者のローテーションも決まっていた。しかし、常駐している司祭の他に、ゲストの司祭たちもミサをするということで、脇祭壇での侍者を急遽依頼された。

ミサの準備はもう誰かが先にしてくれたので、カソックを着て司祭と共に脇祭壇へ向かった。すると、水とワインなどの用意はあったが、ベルだけが置いてなかった。会衆がいないのだから必要ない、ということらしい(厳密には会衆はいるし、脇祭壇の様子は丸見えなのだが、彼らはあくまで主祭壇のミサに与っている)。

このように、トリエント・ミサは会衆がいなくても捧げられる。だが、ノヴスオルド・ミサは会衆がいないと捧げられないことさえあるという。ミサの違いは司祭の意識の違いにさえなっているようだ。

ウィリアム王子の結婚式はなぜ4月29日なのか

イギリス王室のウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんとの挙式が、来年の4月29日に決まったことが報じられている。場所はウェストミンスター寺院とのことである。

ところで、なぜこの日なのか。細かい日取りのことは流石に分からないが、4月の下旬という時期が選ばれた理由ならば、キリスト教徒は大体気が付く。少し鈍い信徒でもヒントを出せばまず分かるだろう。

その鍵は典礼暦にある。典礼の季節によって結婚に相応しくない時期があって、来年の場合なら4月24日の復活祭までの約1ヶ月半がその時期に当たる。裏を返せば、復活祭を迎えたら盛大に祝い事ができる、ということである。

そのようなわけで、まるで待ちかねたかのように、復活祭から間もない29日に結婚式を挙げるのである。以上は推測だが、まず間違いなかろう。

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現行の典礼カレンダーは「革命暦」か

昨日は日本のほぼ全てのカトリック教会で、「王であるキリストの祝日」を祝ったはずである。この祝日で典礼年の最後を締めくくることは一見もっとものように思われるだろう。

しかし、この祝日はもともとこの位置にあったのではない。教皇ピウス11世は、回勅クアス・プリマスの中で、諸聖人の祝日のすぐ前の主日、すなわち10月の最終主日に定めた理由を説明している。

そのような経緯で制定された祝日を移動させれば、当然その意味合いも変わってくる。年間の最終主日に移動されたこの祝日は、教皇の意図から逸れて、今や終末と絡めて説明されている。

このように、「王たるキリスト」は本来の地位を引きずりおろされている。もはや今の典礼カレンダーは「革命暦」ではないか、と言いたくなるほどだ。

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トリエント・ミサの侍者を募集するプロモーションビデオ

聖ピオ十世会関連の動画を漁っていたら、ミサ聖祭の侍者を募集するビデオ(Archconfraternity of St. Steven.wmv)を見つけた。

だが、聖ピオ十世会の司祭が常駐しているような規模の教会ならば、侍者のなり手が不足しているとは考えにくい。それより小さい教会だとしても、内部で募集するためにわざわざ動画を編集するとは思えない。

どういうことかと思ったら、連絡先が聖ピオ十世会アメリカ管区やその各教会となっていた。おそらく、「トリエント・ミサならこのような素晴らしい祭壇奉仕を体験できる」ということを、余所の教会の信徒にアピールする狙いなのだろう。

そういうことなら、日本の聖ピオ十世会で行われるミサ聖祭のためにも、このビデオを広めたいものである。ただし、侍者団規則によれば、侍者を召し出すのはあくまで管轄司祭であることを確認しておく。

荘厳司教ミサに満足していて本当にいいのか

荘厳司教ミサの通な与り方4の中で、トリエント・ミサから新しいミサへの移行という過去の記事を紹介したが、その引用部に綴りの誤りが見つかったほか、表記の不統一や自分の意図通りでない表示があったので、修正しておいた。

これもいい機会なので、まだ見ていなかったら一読しておいてほしい。ラテン語規範版通りの荘厳司教ミサでさえ、トリエント典礼に比べれば相当に簡略化されたものだということが分かるだろう。

荘厳司教ミサの通な与り方4

「荘厳司教ミサの通な与り方」について、これまで3回ほど書いてみた。ほとんどはミサレットに記載されていない動作かも知れないが、頭を下げるのも跪くのも、独りでできるという意味ではさほど困難ではないと思う。

しかし、御聖体拝領においてもトリエント式を貫こうと思うと、多少心配がある。司祭を相手にするからである。

トリエント・ミサでは、信徒が御聖体を拝領するときに「アーメン」と唱えない。あるいは、唱える必要がない。おそらく、司祭が祈りの結びに「アーメン」と唱えるからと思われる。

さて、もしもここで意固地に「アーメン」と答えなかったらどうなるか。それでも御聖体を授けてくれるとは思うが、きっと変な間ができることだろう。

この不都合を避けるためには、前に進み出たらすかさず目を閉じて舌を出すのがよい。ホスチアを授けないことには次に進まない、という状況になるからである。

それにしても、何でこんな面倒なことになるかと言えば、ミサが変わりすぎているからである。そのことについては、トリエント・ミサから新しいミサへの移行に引用した資料が参考になるはずだ。

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荘厳司教ミサの通な与り方3

荘厳司教ミサまであと3日となった。通な与り方の練習ははかどっているだろうか。

今日は Sanctus の部分に入る。Gloria や Credo のように頭を下げるところはない。最後の Benedictus qui venit のところで十字のしるしをして、歌い終わると跪く。それだけである。

ここでの跪きの指示はミサレットにはないと思われる。しかし、ここで跪いておかないと、聖変化のときに突っ立っていることになってしまうから、このタイミングは逃さないようにしたい。

さて、悩みどころは、聖変化の後の Mysterium Fidei で歌が入ることだ。

本来なら、主祷文 Pater Noster の手前の Per omnia saecula saeculorum まで跪いているところだが、妥協してこの歌のところで立ち上がるのがスマートだろう。

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荘厳司教ミサの通な与り方2

昨日の荘厳司教ミサの通な与り方1では Gloria のときの動作を説明したので、今日は Credo を取り上げる。

司式者が Credo in unum Deum と歌い出したら、Deo のところで頭を下げる。次に頭を下げるのは、Jesum Christum のときである。

途中、Et incarnatus est ... のところで跪き、Et homo factus est と歌ったら立ち上がる。トリエント・ミサでは皆が一斉に動くのでタイミングを逸することはないが、荘厳司教ミサでは独りということもありうるので細心の注意を払わなくてはならない。

その後は、また simul adoratur のところで頭を下げ、 Et vitam venturi saeculi のところで十字架のしるしをしたら Credo については終わりである。

当日配られるミサレットには、これらの動作の一部または全部が記されていないであろうから、周りから注目されること請け合いである。しかし、くれぐれも練習を怠らないように。

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荘厳司教ミサの通な与り方1

いよいよ今週の土曜日にカトリックアクション同志会主催の荘厳司教ミサが行われる。年に一度のこのラテン語ミサを心待ちにしている人も多いことだろう。

ただ、いかにラテン語とグレゴリオ聖歌とで捧げられるとはいえ、やはり新しいミサであることに変わりはない(伝統的なノヴスオルド・ミサ?参照)。そのため、聖ピオ十世会の巡回聖堂でトリエント・ミサに与る信徒は、だんだんとこのイベントに参加しなくなるようだ。

では、もしも何らかの理由で荘厳司教ミサに与らざるを得ないときはどうするのか(何もそこまで嫌がらなくても)。そのときはきっと、ノヴスオルド・ミサで簡略化された所作を補いながら与ることだろう。

例えば栄光誦では、司式者が Gloria in excelsis と歌い出したら Deo のところで頭を下げる。以下、Adoramus te, Gratias agigmus tibi, Jesu Christe そして Suscipe deprecationem でも同様にする。最後の Cum Sancto Spiritu で十字のしるしをすれば完璧である。

何も知らない信徒の目には奇異に映るかもしれないが、これこそはトリエント・ミサで普通に行われている、本来の与り方である。よく練習して、本番で実践してみてはいかがだろうか。

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死者のためのミサと献堂式のミサとをカップリングする謎

手元にあるソレム修道院聖歌隊のCDの中に、Défunts. Dédicace というのがある。

死者のためのミサと献堂式のミサ。互いに関係がなさそうな2つのミサを、どうして1つのCDに収めたのか、しばらく理由が分からなかった。どちらも D で始まるから、というのも考えにくい。

その謎が解けたのは、今日ミサ典書を見ていたときのことである。もうすぐやってくる祝日を調べていたら、9日に「至聖なる救世主の大聖堂献堂式」というのがあった。この祝日に固有のミサはなく、献堂式の共通ミサを祝うことになっている。

つまり、11月2日の死者の日のためにこのCDを引っ張り出したら、9日の献堂式のミサの準備にもなる、ということである。良くできている、と感心することしきり。

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死者の日に思い悩む

今日は死者の日なので、全ての死せる信者のために祈るべきところなのだが、拙い祈りを全ての死者のために捧げるとなると、まるで無限希釈のようでもあり、若干の無力感を覚える。

ならばいっそのこと「主の御憐れみを最も必要とする霊魂」のために祈るのはどうか。きっとその方が易しいだろう。

ただ、それがこの記念日の趣旨に合っているかどうかは分からないので、勝手な判断は控えたい。

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