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聖ピオ十世会のナンバーツーが来日中

現在、聖ピオ十世会の総長第一補佐であるフルーガー神父が来日しており、明日は東京でミサ聖祭を捧げ、午後には講話を行うことになっている。

当日都合の悪い人のために、二年前の講話(Fr. Nicholas Pfluger - SSPX)と、今年の説教(All Saints Day - 2010 - SSPX commemorates 40 Years)の動画を紹介しておく。

さて、フルーガー神父のプロフィールについては、フェレー司教が総長に再任されたときの聖ピオ10世会総長から信徒の方々へのお手紙に短い紹介があるのでご覧頂きたい。

その文中に「司祭として働いている二名の兄弟と二名の甥」とあるが、オーストラリアの神学校にいる同姓の司祭がそのうちの1人ではないかと思っている。

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天使祝詞を語るならミサ典文のことも語ってみてはどうか

新しい口語の天使祝詞「アヴェ・マリアの祈り」の試用が始まってから1週間になる。その間に主日のミサもあったから、あちこちでこの祈りが話題になったに違いない。

その議論を集約すると、冒頭の「アヴェ」に違和感がある、抜けていた語が補われたのは一歩前進だ、あれこれの訳語にはまだ問題が残る、といったところではなかろうか。

そうやって祈りの文言についていろいろと語るだけの見識があるならば、是非ともノヴスオルドのミサ典文についても語ってほしいものだ。いかにラテン語規範版に忠実に訳されていたとしても、トリエント典礼と比較すると驚くほど内容が落ちているからである。

例えば、ミサ聖祭の初めにある告白の祈りから、聖人と大天使の名前がごっそり削られていること、御血の聖変化の言葉から「信仰の神秘」が切り取られて、別の所で唱えられていること、御聖体を信徒に授けるごとに唱える祈りが、ほとんど原形をとどめていないこと、読誦ミサの後に唱えられていた「聖会のための祈」が削除されていること、などなどの問題点が見つかるはずだ。

とりあえず今日のところは、過去のエントリーより、トリエント・ミサから新しいミサへの移行ミサ典書から閉め出された諸聖人大天使聖ミカエルの祝日に思う大天使聖ミカエルの祝日に思う2あたりを読んでみるといいだろう。

無料で手に入れることができる2011年度典礼カレンダー

来年度のトリエント典礼のカレンダーを手に入れようと思っても、日本のカトリック書店にはまずない。だからといって海外から取り寄せるのは時間がかかる。下手すると、届くのは来年になってからだ。

少し長い目で見れば、1月にカレンダーが届いても決して遅くはない。しかし、それでは落ち着かないという人のために朗報がある。

近頃、オーストラリア・ブリスベンにある聖ピオ十世会の教会が来年度の典礼カレンダーを編集し、PDFファイルとしてアップロードした。現在、クイーンズランド地区のページよりダウンロードできる。

祝日など、あくまでオーストラリア国内用であり、かつ教区用ではあるが、注文したカレンダーが届くまでの一時しのぎには使えるだろう。

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「アヴェ・マリアの祈り」を批評してみようかと思ったが

これまで口語の天使祝詞として使われてきた「聖母マリアへの祈り」が不評のため、これに代わる改正案「アヴェ・マリアの祈り」が作られ、試用が始まったそうである。

そこで、この新しい祈りについて批評をしてみようかと思ったのだが、やめておくことにした。

仮に、やれここがおかしい、こう直すべきだと提案したとしよう。さらに、それが受け入れられて、正式版に反映されたとしよう。

そうなったら、その理想的な祈りを使うことにするだろうか。一応は評価しつつも何やかや理由を付けて、文語の祈りを使い続けるのではないだろうか。

それくらいなら、さらっと「まだ文語の方がいい」と言ってみせるのがスマートだろう。

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エキュメニズムはインマクラータ(無原罪の聖母)の敵である

昨日までの数日間、マキシミリアノ・コルベ神父のことば集である『無原罪の聖母』を読み返していたが、反省することばかりで辛い読書であったことを告白しておく。

さて、聖母の祝日は過ぎてしまったが、この機会に、小野田神父様のブログより、インマクラータ vs エキュメニズムという記事を読むことを奨めたい。引用2点のほんの短いエントリーなのでそれほど時間はかからない。

これを読んでもまだエキュメニズムに未練があるならば、拙記事で恐縮だが救霊の観点からエキュメニズムを考えるとを読んでもらいたい。何か思うところがあったらコメントを書いてもらって結構である。

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聖なるマリアの無原罪の御孕りの祝日をいかに迎えるか

主日が過ぎたと思ったら、すぐにも大きな祝日が控えている。この祝日のための準備をどうしたらいいのかと思っていたところ、自分自身で2年前に書いていた(聖なるマリアの無原罪の御孕りの祝日に)ことに気が付いた。

そこで『無原罪の聖母』を探し始めたら、幸いなことに短い時間で見つけだすことができた。祝日まではこの本を手元に置いて過ごすことにしよう。

後は、聖母がご自分の名前を「無原罪の御孕り」と告げた、聖ベルナデッタの伝記映画「聖処女」を、当日までに1回鑑賞できれば、と思う。

自慢して当然だと思った自慢話

オーストラリア・シドニーにある聖ピオ十世会の教会を訪問したとき、ある男性信徒と知り合いになった。そして何度目かに顔を合わせたとき、こう教えられた。

「僕はパドレ・ピオの侍者をしたことがあるんだよ。」

確かに名前はイタリア系だし、それくらいの年齢だし、そのような人も数多くいるだろうから、大いにありうることのように思われた。

それでも、この話題そのものが意外だったので、そのときのことや聖人の印象について、根ほり葉ほり質問することを思いつかなかったのが悔やまれる。

兎にも角にも、これまで人から聞かされた自慢話の中で、これなら自慢して当然だと思った数少ない話の一つだ。

教区の男性信徒全員がミサ聖祭の侍者をできるようにと、この男性が献身的な働きをしていることも、これが単なる自慢話に終わらない理由の一つとなっている。

今日12月3日は岩下壮一神父の命日

岩下壮一神父は70年前の今日、霊名の聖人の祝日に帰天した。活躍した時期は大正から昭和初期にかけてであり、いわば過去の人である。

だが、その名は私の世代でも結構知っている。というのも、『カトリックの信仰』という著作が講談社学術文庫として一時期出ていたからだ。

残念なことに、これも何年か前から絶版状態となっている。古書も品薄で、当時の定価の2倍程度で取引されている。これでは手を出したくても躊躇することだろう。

しかしながら、どこぞの司祭の講座に金を払って参加するほどの勉強熱心であれば、岩下神父の講義録(900ページを越える)とでもいうべきこの本を、思い切って買ってもいいのではないか、と思う。

related page(s) 岩下壮一

聖フランシスコ・ザベリオの祝日に思う

今日は聖フランシスコ・ザベリオの祝日である。この聖人への祈りが「公教会祈祷文」に載っているので紹介する。

聖フランシスコ・ザベリオにならいて善徳を求むる祈

ああ天主、主は聖フランシスコ・ザベリオの奇蹟と聖役とによりて、わが同胞に主の御教えを伝え給えり。▲願わくは、その栄えある功徳を讃うるわれらをして、その善徳を学ばしめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。

こうしてこの祈りの文言を読んでいると、日本のカトリック信徒にとって大恩人とも言うべきこの聖人に対して、自分の関心があまりにも薄いのを恥ずかしく思う。確か、過去に薄い伝記を一回読んだきりではなかろうか。

ついでに、極東の日本にはるばるやってきて福音を伝え、洗礼を授け、ミサを捧げた聖人の右手について、少し言及したことがある(司祭の手と御聖体とについて)ので、興味があれば読んで欲しい。

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司祭はいつどこでどのように「転向」するのか2

この日記では、正平協の問題を、司祭職という観点から考えている。要は、現在神学校で教えられている司祭職そのものに問題があって、それが忠実に実践されているがゆえに、正平協の活動が現象として顕れている、ということである。

今の日本のカトリック教会で司祭職がどのように捉えられているのかは、例えば司祭叙階式の説教を読めば、ある程度分かるだろう。以下は、少し前のイエズス会司祭叙階式説教からの引用である。

現代の荒れ野、現代の砂漠に福音をのべ伝え喜びの便りを告げ知らせるために司祭は叙階されます。

これが現在の司祭職である。ミサ聖祭を捧げる祭司としての要素はほとんど後退している。かくして、福音宣教の名の下に、教会の外に目を向けてばかりの司祭ができあがるのだ。

果たしてこのような司祭たちは、何をきっかけにして伝統的司祭職に目覚めるのだろうか。正平協の分科会に乗り込んで罵声を浴びせたらいいのか。イグナチオ教会の前で抗議行動をすればいいのか。それともただ憂慮してみせればいいのか。

唯一ではないにしても有効なのは、伝統的修道会の司祭と交流の場を持つことであろう。常に修道服を着ている姿を見るだけでも何か感じるところがあるはずだ。

ちなみに、マニラにある聖ピオ十世会の教会には、これまで何人かの司祭や助祭が訪れて、トリエント・ミサの捧げ方を学んだそうである。このような司祭たちの教会なら、きっとグレゴリオ聖歌や跪きが拒まれることはないだろう。