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地震の被災者のためにゲンキンのご協力?

今回の地震による被災者のための募金活動が、駅前で大々的に行われていた。これまで見たことのない規模だった。

そのボランティアの中の誰かから、「ゲンキンのご協力をお願いします」という声が聞こえた。

確かにこのような場所で集められるのは、物資でなく現金には違いない。とはいえ、いくら何でもあからさまではなかろうか。

だが、ほどなくして事態が飲み込めた。別の人から「義捐金」という声が聞こえたのである。もちろんこれが正解である。

あのような紛らわしい発音をする人は例外だろう、と思っていたら、実はそうではなかった。また別の2人が「ゲンキン」を要求していたに出くわした。

埼玉県内でもかなり東京寄りな地域での実話である。

ルフェーブル大司教が亡くなって20年

今日はお告げの祝日であると同時に、ルフェーブル大司教の命日から20年の節目である。

未だに大司教の名誉が十分に回復されていないということは、カトリック教会の危機が認識もされていないということでもあり、遺憾と言う他ない。

今日のところは、教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者の皆様へのお手紙の目次に、小野田神父様が書いた序文のようなもの(訳者の言葉)を紹介しておくので、一読を願いたい。

そして、時間のあるときでいいから、本文までも読み進めてほしい。大司教が何を訴えていたかも知らずに誹謗中傷する者の言葉に惑わされないように。

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地震と津波による災害で家族と連絡が取れなくなった方々のために

カトリック信徒の間では、なくしものを探すときにはパドゥアの聖アントニウスに取りなしを願うとよいとされている。

実際には、なくしものだけではない。この聖人は、人捜しにも力を貸してくれると言われている。行方不明者はもちろんのこと、将来の配偶者探しにも一役を買い、「縁結びの聖人」という異名すらあるほどだ。

さて、報道によれば、11日の地震と津波による行方不明者が1万人を越えているとのことである。

家族が生きているか死んでいるかも分からない、という状態はとても苦しいことだろう。例え悲しい事実であっても、一刻も早く知りたいことだろう。

ただ、彼らの多くは聖アントニウスを知らないであろうから、カトリック信徒は代わりに祈ってあげてほしいものである。

計画停電でふと思い出したこと

ロシアがポーランドを侵略し、新しい国境を策定することになったとき、ちょうど国境線上にある家の主人が帰属を選んでよいことになった。一晩悩んだ末に出した結論は、「やはりポーランドにする」。その理由は、「ロシアの冬は厳しいそうだから」とのこと。

そのような小話があるほど、ロシアの冬は寒い。マイナス数十度ということも珍しくはない。

だが、モスクワとウラジオストックを結ぶシベリア鉄道の車内は、真冬でもTシャツでいられるほど暖かい。それほどの暖かさを生み出す暖房機器は何かといえば、実は石炭ストーブである。

では、何故今どきそのようなローテクを使っているのか。

平時であればすぐに理解できる日本人は多くないが、計画停電が行われるようになった今ならば、反応がかなり違うと思われる。

世界中のカトリック信徒たちが日本のために祈っている

今回の地震と津波による被害は既に世界中で報じられているだけでなく、教皇ベネディクト16世の呼びかけもあって、多くのカトリック信徒が日本のために祈ってくれていることは間違いない。

しかし、分かってはいても実感が湧かないということもあろう。ならば、カトリックの掲示板に寄せられた声に目を通してみてはどうだろうか。

伝統派カトリックのサイト Angelqueen.org が主催するフォーラムでも、Japan 8.9 EARTHQUAKE and Tsunami というトピックが立てられ、この記事を書いている時点で39の書き込みがある。

また、被災地が秋田に近いこともあって、Japan quake epicentre near Marian site of Akita というトピックも若干の関心を集めている。聖母のメッセージと今回の災害との短絡的な結び付けは控えるべきだが、よくよく考えるに値するだろう。

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カトリック信徒が被災者のためにできることは何か

東北地方太平洋沖地震が起きてからというもの、何か書かねばと思いつつも、その被害の甚大さに言葉を失っているような有様であった。

もちろんカトリック信徒としては、月並みに「祈りを捧げよう」と書いて済ますこともできたかも知れない。

ただ、救助活動や支援活動に携わっている人々の連日連夜の働きを思うと、祈りを呼びかけるだけでは消極的に思えて仕方がなかったのも事実だ。

とはいえ、現実的な問題として、応援をするために被災地に行けるものではなく、義捐金も今日明日に役に立つわけではない。

その点、祈りならば、今すぐにも聞き届けられ、困難な状況にある被災者たちの助けになるやも知れぬ。そしてそれは、昼夜を問わず、世界のどこにいてもできる。

このように、祈ることの積極的な側面を思い起こし、被災者のための祈りを呼びかけたい。

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四旬節には四旬節そのものを考えてみたい

いよいよ昨日から四旬節が始まった。毎年のこととはいえ、四旬節をよく過ごすにはどうしたらよいかと迷うカトリック信徒も少なくないだろう。

インターネットでいろいろ探してみれば、どこかの司祭が作成した、あれをしろ、これをするな、といったリストが見つかるはずなので、それを利用したいところだ。

しかし、そこに書いてあるのは、案外実行が難しいことばかりだったりする。「何故そこまでしなくてはいけないのか」と疑問に思うこともきっとあるだろう。

そうだとしたら、四旬節について、また断食や犠牲の意義について学び直すべきときが来ていると思ってよい。

長年使っているミサ典書であっても、今改めて四旬節の説明を読むならば、分かっているようで分かっていなかったことを思い知らされるに違いない。私も思い知らされたばかりである。

宗教科教育の題材としてのナルニア国物語

オーストラリアでカトリックのとある家庭にしばらくホームステイしていたときのこと、ホストとその娘と一緒に映画「ナルニア国物語」の1作目を観に行ったことを覚えている。

聖書を読んだことのある人ならすぐに気が付くことだが、この映画には、受難や復活など、福音書の中のいくつかの要素が散りばめられていた。この作品が宗教科教育法の受講生の間で評判がよかった理由も、このとき初めて分かった。

しかし、同時に、「この程度のことを教えるのに、こんなに遠回りしなければならないのか」という感想も抱かざるを得なかった。

この映画を中学高校の授業で見せようと思えば3時間分は必要だが、それに比べて学べることは非常に少ない。エンターテインメントとしてはともかく、宗教科の題材としてはいかがなものだろう。

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典礼聖歌の想い出

大学や一般の合唱団でラテン語のミサ曲やレクイエムを歌ったことのある人はかなりの数いるはずだ。私もその中の一人であった。

それで、カトリック教会ではその経験が活かせるのではないかと甘い考えを抱いていたのだが、いざ通いだしてみると、ラテン語どころか日本語ばかりで、しかも妙なメロディーの典礼聖歌が歌われていて、とてもがっかりしたものである。

しかし、慣れというものは恐ろしい。知らぬうちにその聖歌を一生懸命に歌うようになっていた。また、いわゆる「下のパート」を任されて、苦手な低音を頑張って出そうとしていたこともあった。

後に典礼聖歌を歌わずに済むようになり正気に戻ることができたが、あの頃は一体何をしていたんだろう、と今でも思う。

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