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コルベ神父についての講演動画を発見

聖ピオ十世会ポーランド管区長のシュテーリン神父(Ks. Karol Stehlin)はいくつもの講演を動画で残しているが、残念なことにみんなポーランド語である。

かねてより、そのうちの1つか2つくらい英語で話したものがないだろうかと思っていたところ、最近になってようやく見つけることができた。

それもそのはず、その動画(St. Maximilian Kolbe & the Militia Immaculata)は今年の6月にローマで開かれた国際ファティマ会議で撮影された、比較的新しいものだったのだ。

約1時間の動画なので、いつかゆっくり時間を取って、メモ帳を片手に聴いてみようと思う。それまでは聞き流しの要領で。

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正平協には正平協の辻褄がある2

伝統派のカトリック司祭や信徒はときどき、「ノヴスオルドの司祭」という言い方をする。

これは、単に「ノヴスオルド・ミサを捧げている司祭」を意味するものではない。罪・贖い・ミサ聖祭・秘蹟・司祭職などについて、伝統的養成とは異なる体系を身につけた司祭という含みがある。

こうして、「昔のミサでは司祭が会衆に背を向けていた」「これからは教会の外に目を向けなければいけない」などと教えられ、受け入れてきた司祭たちなら、正平協の活動に聖職者としての使命を感じることすらあるだろう。

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正平協には正平協の辻褄がある

正平協というと、カトリックの聖職者が本業を差し置いて力を入れている活動と思う人がまだ多いかも知れない。

だが、そのような人たちが抱く司祭像は時代遅れだ。なぜなら、第二ヴァティカン公会議で司祭職のあり方が変わったからである。

具体的には、司祭職の第一の目的が福音宣教となった。祭壇で犠牲を捧げることが第一だったのは昔の話だ。

新しいミサもまた、新しい司祭職を後押しするものである。司祭は祭壇から会衆へと向きを変え、更に教会の外に目を向けるようになった。

つまり、正平協の活動は、公会議後のカトリック教会が掲げる司祭職と調和したものであり、立派な本業なのである。

従って、口先で公会議と新しいミサとを受け入れると言いながら、正平協だけを受け入れないカトリック信徒こそがねじれているのだ。

さて、ここまでの文章が正平協擁護のように読めて驚いたかも知れないが、それはただの技巧なのでご心配なく。

何にせよ、これだけ密接に結びついているものから正平協の活動だけ取り除けというのは無理難題であり、正平協を批判するなら第二ヴァティカン公会議も新しいミサも、というのが私の結論である。

ドミニク、ニク、ニク

新しい典礼暦によれば、今日8月8日は聖ドミニコの祝日だそうだ(ちなみに、1962年版トリエント典礼のミサ典書に基づくカレンダーでは8月4日)。

さて、この聖人はアルビジョワ派異端の撲滅に尽力したことで知られているが、現代のドミニコ会は何をしているであろうか。

東京大司教区ウェブサイト内の渋谷教会の案内には、次のような紹介文がある。

キリスト教一致祈祷週間には、近隣の日本基督教団聖ヶ丘教会・渋谷バプテスト教会と一緒に合同の祈りを捧げ、エキュメニズムの実践にも力を入れております。

ドミニコ会は大丈夫だろうか。

反正平協のカトリック信徒はどこまで反共か

第二ヴァティカン公会議は、ロシア革命後初めての公会議であるばかりでなく、東欧や東アジアに共産主義国家が次々と誕生して間もない時期に行われた。いわゆる「冷戦」の時代である。

このような時代背景を考えれば、共産主義の問題を話し合い、これを断罪するというのは、この公会議が開かれる第一の理由であってもいいくらいのものだ。実際に、司教たちから共産主義を排斥するための文書を起草するよう求める声が挙がり、数百名分の署名を提出している。

しかし、この署名は無視され、無かったことにされた。どのような勢力が公会議をリードしていたかが垣間見える話ではないか。詳しい顛末はルフェーブル大司教の伝記(聖ピオ十世会創立者の伝記 12.3.7.共産主義を排斥しなければならないという要求)を参照されたい。

この記事が反正平協のカトリック信徒の目に触れるのは何ヶ月後か何年後か知らないが、この事実を知ってもなお第二ヴァティカン公会議に疑念を抱かないとすれば、反正平協を気取ってはいてもさほど反共ではないのだろう。

エキュメニストはずるくないか

公立学校や教育行政に携わる教職員でも、自分たちの子息は私学に通わせている、ということが多々ある。まるで抜け駆けのようで、どことなくずるい印象を受ける。

しかし、もちろんルール違反ではない。また、個別に見れば、私学を選ぶもっともな理由もあるだろう。

一方で、やれエキュメニズムだ対話だ交流だと、まるでどの宗教も差がないかのようなメッセージを発信しながら、自分たちの救霊に必要な秘蹟はせっせと受けるカトリック信徒については、言い訳のひとつも見つけてやることができない。

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