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司祭の手

昔々、味噌のテレビコマーシャルで「ママの手は魔法の手」という歌が流れていた。料理も裁縫もできる母親の手を、小さな子どもが驚きと尊敬の念とをもって「魔法の手」と呼ぶ、という内容だ。どうせ大人が書いた歌詞ではあろうけれども。

さて、カトリック信徒にとって司祭の手とはいかなるものであろうか。

司祭叙階式において、受階者の両手は司教から聖香油を塗られて聖別される。そして初めて、パテナとカリスとに触れるのである(Priests for Tomorrow - Part 6 参照)。

また、どこでも行われているわけではないが、叙階直後の司祭の手から祝福を受け、その手にキスをする習慣もある(Priests for Tomorrow - Part 7 参照)。

しかしながら、司祭の聖なる手を相対的に貶める行為がカトリック教会に蔓延している。それは、手による御聖体拝領である。

そのようにして、聖別されてもいない手で御聖体をペタペタペタペタペタペタペタペタ触る信徒が、司祭の手を特別なものとして見るはずはないのである。

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知らない素振りをする司祭たち

エクレジア・デイ傘下の修道会では、昔の式次第による堅振の秘蹟を地元司教に執行してもらっているものと思うが、条件付きの堅振は行っていないようだ。

確かに、「新しい式次第での堅振は有効性が疑わしいので、条件付きで堅振を授けてほしい」とは言いにくいであろう。先の秘蹟を授けたのが当の司教であればなおさらである。

従って、無効の可能性を否定できない堅振の秘蹟を既に「受けた」信徒は、いつまでも疑いが残るままになってしまう。後からやってきた者は確実に有効な堅振を受けられるというのに。

聖ピオ十世会を離れて今は聖ペトロ会などに所属する司祭らは、現行の堅振の問題点(質料も形相も、ともすると意向も)について熟知しており、かつては信徒にも説明していたはずだが、一体どのような思いで沈黙しているのだろうか。

また、この件で信徒より質問を受けた場合には、どのように対応しているのかも気になるところだ。

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「公会議の精神をねじ曲げた者が悪い!物語」はもう捨てよ

第二ヴァティカン公会議後のカトリック教会の混乱について、公会議の精神を標榜して好き勝手なことをした者たちが悪いということにして、本来の「公会議の精神」に立ち返るべきだ、という議論があるが、果たしていかがなものであろうか。

そこで、このことを考えるために資料を用意した。次の年表は、聖ピオ十世司祭兄弟会関係の年表から抜粋して若干の編集を加えたものである。

1945年 ローマのアンジェリクム教皇庁立大学で、レジナルド師、ガリグ・ラグランジュ師、ラブルデット師などが、イエズス会士のダニエルー師、ド・リュバック師らの新しい神学に対抗して伝統的な神学を擁護する。(-1950年)
1950年 回勅『フマニ・ジェネリス』が発表される。ド・リュバック師などを暗に排斥する。聖庁はコンガール師の著作を危険視する。
1954年 聖庁はシュニュー師が教えることを禁止する。
1952年 2月以降、コンガール師のすべての著作はローマの検閲を受けなければならなくなる。ド・リュバック師の全著作もローマの検閲命令を受ける。
1954年 聖庁はカール・ラーナー師にミサの共同司式について沈黙を命ずる。
1962年 6月7日、聖庁はラーナー師の全著作を検閲することを決定。

ここに挙げられただけでも、何人ものリベラル神学者たちが、教会から異端の嫌疑をかけられ、制裁を受けていたことが分かるであろう。

しかし、これらの「前科者」または「容疑者」たちは、あろうことか公会議の顧問として迎えられ、その期間中に多大な影響を及ぼした。公会議の精神とは、彼らの精神と言っても過言ではない。いつまでこんなものを擁護し続けるつもりなのか。

荘厳司教ミサはラテン語ミサの普及につながるのか

先週の土曜日にカトリックアクション同志会主催による荘厳司教ミサが行われたようである。例によって出席はしていない。

さて、参加者がこのミサに満足しておりまた来年の開催を待ち望む、ということであれば、主催者はその希望によく応えているので、あまり言うことはない。

とはいえ、こういうミサがもっと増えて欲しいという声も常にあり、その思いは満たされていない、と指摘しておく必要はあるかと思う。

勝手に労働組合に例えるならば、年に1度の荘厳司教ミサを除いては、これといって勝ち取ったものはなく、どこかの小教区がラテン語ミサを行うための交渉の後ろ盾になっているようにも見えない。

もちろん、会には会の趣旨があるのだから、「同志会は労働組合のようなものではない」という反論があっていい。

しかし、もしもその通りだとしたならば、そういった働きも望めないわけで、もっと多くのラテン語ミサを希望する人にとっては何とも寂しい話であろう。

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おはようからおやすみまで暮らしを見つめるのは

自分でも満足に読み返せていない本を、人に勧めていいものかどうかとは思うが、良書だという確信だけはあるのでここに紹介する。

それは、All About the Angels (TAN Books) という、守護天使についての本である。これを読めば、天使がいかに身近な存在かあらためて気づかされることであろう。

さて、守護の天使の祝日も残りあとわずかというこんな時間に日記を書いているのは、何かに突き動かされてのことであろうか。

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マリア (10/03 09:04) 編集・削除

アヴェ・マリア!!♪♪

幼きイエズスの聖テレジア様の祝日!♪

おめでとうございます♪

すみません、守護の天子様の御本は、英語版のような。。日本語のは出ていますか?

お時間のあります時に、どこかにお返事頂けると嬉しいですが。。

デオ・グラチアス!!

管理人 (10/04 06:20) 編集・削除

よく調べたわけではありませんが、日本語版は存在しないと思います。

カトリック教会に蔓延する創価学会的メンタリティ

カトリックから見て仏教というのは異教でしかないので、どの宗派が正しいとかいかにあるべきかとか、そのようなことは本来ならばどうでもいいはずである。

ところが、ある人たちの存在を知って、どうしても興味を抱かずにはいられなかった。きっかけは、世田谷広宣部N君徹底破折 13 本尊義・変節したのはまさに創価という動画である。

彼らの主張は、最初は正しかった創価学会が第三代会長のころから変節してしまったということだ。もちろん、その三代目に心酔する学会員や昔を知らない学会員からは睨まれ非難されている。

この構図は、カトリック教会が第二ヴァティカン公会議で変節したと主張する聖ピオ十世会が、公会議を支持する信徒や公会議前を知らない信徒から睨まれ非難されるのと、結構似ているのではあるまいか。

Kの悲劇

カトリック信徒なら、ミサ通常文の Kyrie が実はラテン語ではなくてギリシア語であることはご存じであろう。

それは、ラテン語のミサにおいてすら訳されることなかった、元の言葉が尊重された、ということでもある。

ところが、国語化されたミサ典書にはこの態度は見られず、どこの言語でもギリシア語は保持されていないようだ。

しかも、Kyrie eleison. Christe eleison. Kyrie eleison. は、それぞれ3回ずつ唱えられていたのに、新しいミサでは2度ずつに削られている。

もしかすると信仰の内容を変えるほどの違いではないのかも知れない。しかし、何か意図があったのではないかと思わずにはいられない。

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ヴァティカンに訴えようと思うなら知っておくべきこと

日本のカトリック教会で起きているトラブルのことで、ときおり「ヴァティカンに訴えてみてはどうか」と口走る人がいる。問題の深刻さにもかかわらず、日本の司教団が問題視しないだろう、解決しようとしないだろう、という理由からと思われる。

それが、教会内ヒエラルキーの上位に立つ者の権限や強制力といったものを頼みとしてのことならば、とやかく言う必要は感じない。

しかし、もしも、ローマなら正統信仰の持ち主が結集していて正しい裁きを下してくれるだろう、という期待からのものであるならば、それは幻想だと言っておこう。

最近も、教理省から審問されたらよさそうな人物が教理省の長官に就いている有様だ(The Rhine flows into the Tiber を知る人知らぬ人を参照)。

それよりも何よりも、複数のドグマを公然と否定していることで世界的に有名なスイス人神学者ハンス・キュンクを、いつまで経っても異端者として破門しようとしないのを、どう考えたらよいのだろうか。

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通りすがりですが (09/13 22:08) 編集・削除

キュングさんは、既に数十年前に破門されたようですが。

管理人 (09/13 23:01) 編集・削除

一般論として、破門されたなどというのは、本文はもちろんのこと見出しにだって使われておかしくない(例えば Excommunicated Theologian says ... とか)、欠くべからざるプロフィールです。

しかし、ハンス・キュンクについて言えば、破門者として紹介する記事に出会った覚えがありません。

できれば、西暦何年に誰により何のかどで破門されたのか、その事実はどこで確かめられるのか教えて下さい。

昨日投稿した者です (09/14 22:21) 編集・削除

1980年頃(1979年と記述されているのも1件見つかりましたが)に聖職停止になったそうですが、日本語版ウィキペディアでは破門(聖職停止を破門と混同した?)と記述されてあります。 外国語版では破門の記述が見つからなかったので、日本語版を書き込みをした人が間違えて記入しているのかもしれません。事実でないのなら訂正した方が良いと思います。

管理人 (09/14 22:56) 編集・削除

「電車が遅れました」
「あなたが遅れたんです」

こんなやりとりを思い出しました。

「時代」を崇拝する聖職者や信徒には要注意

先月末亡くなったマルティーニ枢機卿が生前、カトリック教会は200年遅れているという言葉を遺していたそうだ。200年かどうかはともかく、「時代遅れ」を嫌がる現代人から幅広い賛同を得られそうな発言である。

しかし、その言葉が客観的に意味するのは、神の教会がその時代の人間(の気分や流行)に従属すべきだということだ。例えば、時代の人々が中絶や同性婚を望むなら、教会もそれを認めていくべきだ、ということになる。

神ではなく人間を中心とするこの怖ろしい考えは、カトリック教会内にも侵食している。例えば、「昔のミサでは司祭が会衆に背を向けていた」などといったような言い方がそれだ。このような人たちでも主観的には神を信じていると思っているのだから厄介である。

カトリック信徒たるもの、「時代に合ってない」などと言われても怯まない確固たる信仰を持ちたいものだ。

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未承認 (07/22 11:24) 編集・削除

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未承認 (07/22 12:51) 編集・削除

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あっちこっちフェスタ

トリエント典礼の1962年版ミサ典書に基づくカレンダーによれば、今日は聖ピオ十世教皇の祝日である。

ところが現行の典礼暦では、この祝日は8月21日に移されている。一応、聖人の命日の翌日なので、全く根拠がないというわけではない。

9月3日はその代わりにどれほどの聖人が入ったかといえば、大聖グレゴリオ一世教皇である。なるほど、聖ピオ十世を押しのけるくらいの格はある。

しかし、こちらは命日の3月12日からの移動だ。これではどこに一貫性があるのかよく判らない。

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