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正平協には正平協の辻褄がある2

伝統派のカトリック司祭や信徒はときどき、「ノヴスオルドの司祭」という言い方をする。

これは、単に「ノヴスオルド・ミサを捧げている司祭」を意味するものではない。罪・贖い・ミサ聖祭・秘蹟・司祭職などについて、伝統的養成とは異なる体系を身につけた司祭という含みがある。

こうして、「昔のミサでは司祭が会衆に背を向けていた」「これからは教会の外に目を向けなければいけない」などと教えられ、受け入れてきた司祭たちなら、正平協の活動に聖職者としての使命を感じることすらあるだろう。

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未承認 (08/06 21:43) 編集・削除

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正平協には正平協の辻褄がある

正平協というと、カトリックの聖職者が本業を差し置いて力を入れている活動と思う人がまだ多いかも知れない。

だが、そのような人たちが抱く司祭像は時代遅れだ。なぜなら、第二ヴァティカン公会議で司祭職のあり方が変わったからである。

具体的には、司祭職の第一の目的が福音宣教となった。祭壇で犠牲を捧げることが第一だったのは昔の話だ。

新しいミサもまた、新しい司祭職を後押しするものである。司祭は祭壇から会衆へと向きを変え、更に教会の外に目を向けるようになった。

つまり、正平協の活動は、公会議後のカトリック教会が掲げる司祭職と調和したものであり、立派な本業なのである。

従って、口先で公会議と新しいミサとを受け入れると言いながら、正平協だけを受け入れないカトリック信徒こそがねじれているのだ。

さて、ここまでの文章が正平協擁護のように読めて驚いたかも知れないが、それはただの技巧なのでご心配なく。

何にせよ、これだけ密接に結びついているものから正平協の活動だけ取り除けというのは無理難題であり、正平協を批判するなら第二ヴァティカン公会議も新しいミサも、というのが私の結論である。

司祭はいつどこでどのように「転向」するのか2

この日記では、正平協の問題を、司祭職という観点から考えている。要は、現在神学校で教えられている司祭職そのものに問題があって、それが忠実に実践されているがゆえに、正平協の活動が現象として顕れている、ということである。

今の日本のカトリック教会で司祭職がどのように捉えられているのかは、例えば司祭叙階式の説教を読めば、ある程度分かるだろう。以下は、少し前のイエズス会司祭叙階式説教からの引用である。

現代の荒れ野、現代の砂漠に福音をのべ伝え喜びの便りを告げ知らせるために司祭は叙階されます。

これが現在の司祭職である。ミサ聖祭を捧げる祭司としての要素はほとんど後退している。かくして、福音宣教の名の下に、教会の外に目を向けてばかりの司祭ができあがるのだ。

果たしてこのような司祭たちは、何をきっかけにして伝統的司祭職に目覚めるのだろうか。正平協の分科会に乗り込んで罵声を浴びせたらいいのか。イグナチオ教会の前で抗議行動をすればいいのか。それともただ憂慮してみせればいいのか。

唯一ではないにしても有効なのは、伝統的修道会の司祭と交流の場を持つことであろう。常に修道服を着ている姿を見るだけでも何か感じるところがあるはずだ。

ちなみに、マニラにある聖ピオ十世会の教会には、これまで何人かの司祭や助祭が訪れて、トリエント・ミサの捧げ方を学んだそうである。このような司祭たちの教会なら、きっとグレゴリオ聖歌や跪きが拒まれることはないだろう。

召命は「われらのうちより」2

前回、召命は「われらのうちより」出るものという気構えを持って、共同体のあり方に注意するようにと書いた。

それは召命一般についての話であったが、特に司祭の召命について言えば、「侍者のうちより」出るものだという認識が必要である。

考えてみれば当然のことで、侍者の務めに熱心でない者、まして経験のない者が、一生涯ミサ聖祭を捧げる司祭を志すということは考えにくい。司祭の召命は、侍者として司祭の一挙手一投足を見つめていた者のうちから生じるのが普通だ。

したがって、少年や若い男性信徒が侍者の練習も始めず、いつまでも会衆としてミサに与っているような状況があるならば、責任者に改善を促す必要があるだろう。もちろん、相応しい男性がいるのにもかかわらず女性に侍者をやらせているようなのは論外である。

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彦左衛門 Eメール (07/28 20:42) 編集・削除

仰るとおり、全面的にご意見に賛成。

召命は「われらのうちより」

若いうちは、本気とも冗談ともつかない調子で「司祭になったら」と言われたものである。実年齢よりも若く見える日本人の特権で、それは比較的最近まで続いたのだが、さすがに今となっては限界点を越えたようである。

では、もう召命は他人事なのか、と言えば、断じてそうではないと思う。ただし、思い出のカード上には上があるで触れたような、熟年召命の話ではない。

たとえ歳を取っても結婚しても、「願わくはわれらのうちより、司祭または修道者となりて働く多くの人々を選びて、主の公教会に遣わし給わんことを」(御召を求むる祈)と祈るからには、自らの所属する共同体を召命の温床とすべく、何らかの注意を払うべきである。

具体的には、若い信徒たちがラテン語やグレゴリオ聖歌や聖務日課や公教要理に馴染んでいるかどうか、特に男子なら侍者の務めや練習に励んでいるかどうか、よくよく関心を持っておく必要があるだろう。

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司祭はいつどこでどのように「転向」するのか

ふと思うのだが、いったい司祭は、何をきっかけにして、天使祝詞の口語訳に問題を感じたり、グレゴリオ聖歌を歌うようになったり、跪きの意義を見出したり、煉獄や地獄について説教しなければと思うようになったりするようになるのだろうか。

例えば、信徒が司祭のもとに行って、教皇の回勅なりトマス・アクィナスなりカテキズムなりの一節を指差して、これこれが正しいのではないかと問いただしたらどうだろうか。その司祭は上手く返答することができないかも知れないが、きっと全面的な同意もしないだろう。

おそらく、司祭が自発的に何かを変えようとすることはまずない。従って、何か強制的な力が働かなくてはならない。

可能性があるとしたら、将来、聖ピオ十世会のミサに多くの信徒が流れて地元司教の脅威となり、同じ日にトリエント・ミサをぶつけて信徒を奪回すべく、司祭を指名してその捧げ方を学ばせるときぐらいだ。その司祭に限っては、伝統的ミサと調和する信仰を期待できるようになるだろう。

本来の司祭職に立ち戻れとは言うものの

気が付けばもう司祭年も終わりに近づいている。昨今の司祭の有り様に心を痛め、この機会に本来の司祭職に立ち戻ってほしいと期待する信徒もいたことだろう。

しかし、本来の司祭職に立ち戻るためには、その何たるかを神学校で叩き込まれたという事実がなくてはならぬ。果たしてこの事実は確認できているのだろうか。

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彦左衛門 Eメール (10/09 19:34) 編集・削除

  >しかし、本来の司祭職に立ち戻るためには、その何たるかを神学校で叩き込まれたという事実がなくてはならぬ。果たしてこの事実は確認できているのだろうか。

  彦左衛門曰く:

  現在の、東京神学校は、社会運動の基地のようになっていると、そこで学んだ神学生の親父さんから聞いたことがある。

 

反カトリック感情を助長してまでやることか

最近、YouTube で「カトリック」をキーワードに検索すると、「反日に狂奔する日本カトリック教団の偽善を糾す」と題した動画が目立つ。

日本のカトリック司教団がこのような非難を浴びるのはある程度自業自得だと思っているので、どうとでもなれ、好きにやってくれ、という気分があることは否定しない。

しかし主催者側は、司教団批判を飛び越えて、反カトリック・反キリスト教的な姿勢を露わにしている。いかに正平協に反感を持つカトリック信徒でも、そう簡単には同調できない雰囲気だ。

そのような性格にも関わらずこの運動と連携する女性のカトリック信徒がいるが、まるで、日本の国会議員でありながら韓国で行われた反日デモに参加した岡崎トミ子(民主党)を見るような思いである。

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明石 (05/26 21:20) 編集・削除

ある動画で彼女は、何度も「トイレ行きた~い」と街宣用のマイクで車中から絶叫していました。移動中の高速道路上のようでしたが、こういう痴態を演じている人がなんとカトリック教会のオルガニストとは、嘆かわしい限りです。

正平協だけを叩いてみても

今日はカトリック司教団だか正平協だかを批判する講演会が東京都内であったらしい。信徒ではない知人が知らせてくれたのだが、出かけてみようという気にはなれなかった。

そもそも、この動きがどれだけ盛り上がっても、正平協の活動が大人しくなるというくらいの成果しか得ることができないだろう。そして、典礼や要理教育の正常化は、また別の課題として取り組まなければならないのである。

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「日本カトリック神学院の養成理念と指針」を読んでみた2

「日本カトリック神学院の養成理念と指針」の第一部はABCと分かれている。一番関心のあることは、その中の「C司祭の役務に向けて」に書かれていた。

この部分では、司祭の任務を、預言職、祭司職、王職と分けて説明している。そして、この順番がそのまま優先順位となっているのは、「1預言職に向けて」の冒頭にある一文からも明らかである。

司祭は何よりも、キリストに倣ってすべての人に神の福音を告げる者である。

ならば、司祭にとってミサ聖祭を捧げることは二番目かそこら、ということになろう。そのような考え方に基づいて養成された司祭が正平協の活動に勤しんだとして、何の不思議があろうか。

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