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神父の放言「母なる教会ー聖ピオ10世会について」について2

それでは、母なる教会ー聖ピオ10世会についてから、気になる記述を少しずつ抜き出していこうと思う。

聖ピオ10世会の今の立場は、「公認されていないカトリック団体」ということだが、それが一番簡潔な表現だと思う。

「公認」という言葉で何を言わんとしているのかはっきりしないので、然りとも否とも言えないが、もしも教会から修道会として認可されてないという意味であるならば、それは間違いであるということを指摘しておく。

詳しいことは小野田神父様が既に書いている(【質問】聖ピオ十世会は教会認可の正式な修道会と思ってよいか)のでそちらを参照していただこう。

ついでに、教会法を無視して聖ピオ十世会の認可を取り消そうとした一連の悪巧みのことも広く広く知ってもらいたいものだ。

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神父の放言「母なる教会ー聖ピオ10世会について」について

昨日、この日記が属するブログランキングのエントリー中より、母なる教会ー聖ピオ10世会についてという記事を見つけた。

指摘したいこと、反論したいこと、カトリック信徒として聞き捨てならないことがいくつかあるのだが、ここ3カ月のうちに日記で書いたばかりのことを繰り返さねばならないかと思うと少し気が重い。

とりあえず今日のところは「宣戦布告」ということで。

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トリエント・ミサの効果的な潰し方

近頃、ちらほらとトリエント・ミサが行われているという話を聞いている。司式司祭が高齢なのが気になるが、とりあえずは喜ばしいことである。

その一方で、とあるブログに、正確にはそのコメント欄に、これらのミサを潰すヒントが書いてあるのを見つけた。

要は、通りすがり氏がコメントしたように、どこそこのトリエント・ミサは聖ピオ十世会の関係者が絡んでいると、本当でも嘘でも噂を立てさえすればいいのである。巡り巡って司祭の耳に入れば、ミサの企画そのものが危うくなるだろう。

日本のカトリック教会におけるトリエント・ミサ衰退のため、通りすがり氏の今後の活躍が注目される。

「東京裁判史観」と「エクレジア・デイ史観」

「東京裁判史観」という言葉がある。これは揶揄なので明確な定義があるわけではないが、極東国際軍事裁判の判決を正しいものとして、有罪判決を受けた日本人を断罪する立場、と言えばそれほど外れてはいないだろう。

この史観を奉ずる者は、開戦までの経緯について日本にも言い分があることや、この裁判そのものに問題があることは認めない。また、欧米による何百年もの植民地支配やアメリカやソ連の戦争犯罪との比較を試みることもない。とにかく「日本は悪いことをした」としておきたいのである。

同じように、カトリック教会の中には「エクレジア・デイ史観」とでも呼びたくなるような考え方がある。つまり自発教令「エクレジア・デイ」による裁きを正しいものとして、ルフェーブル大司教を断罪する立場である。

この史観を奉ずる者は、司教聖別までの経緯についてルフェーブル大司教にも言い分があることや、この教令における教会法の適用の仕方に問題があることは認めない。また、聖座が非合法的に聖ピオ十世会を廃止しようとしたことや、中国の天主愛国協会の司教聖別に対する聖座の対応との比較を試みることもない。とにかく「ルフェーブル大司教は悪いことをした」としておきたいのである。

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この人たちの前ではうっかり信仰もミサも語れやしない

今から半年以上前に、長崎の信徒発見と聖ピオ十世会2という記事のコメント欄で、「ピオ十世会の支持者は、神への信仰に熱心なあまり、身近な人への人助けは軽視する人が多すぎます。」と絡んできた輩がいた。

それで、いかなる根拠でそのような言いがかりをつけるのか問い質してみたが、今に至るまで返事はない。きっと回答が出来ないというよりも、書くだけ書いてそれっきり再訪もしていないのであろう。

そんなことを思い出したのは、最近とあるブログで似たような物言いを見つけたからである。

その御仁によれば、聖ピオ十世会は「電車の中で大きな袋を担いで寝ているホームレスのおっちゃんを無視して」いるそうである。何を根拠にそう言うのか、なぜその件で聖ピオ十世会だけを槍玉に挙げたのか、とことん問い詰めてみたい気がする。

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hikky (10/27 18:42) 編集・削除

電車寝ているホームレスなんて、聖ピオ10世会関係なく、普通に、無視しますよね・・・

なんで、そんなことで、いちいち文句を言ってくるのでしょうかね。

全人類の真のお父様 (10/28 10:20) 編集・削除

教区司祭と旅行に行った事がありますが、物乞いを普通に無視していました。別にピオ会だけじゃあるまい。

管理人 (10/28 21:36) 編集・削除

毎度ハンドルネームを変えて投稿するのは止めてもらえませんかね。

全人類の真のお父様 (10/29 17:39) 編集・削除

行っておきますが、私となかしょうこさんとは完全に別人物ですよ。勘違いもいいところです。もう少しご自身の御発言に責任を持たれたらいかがですか?

管理人 (10/29 22:56) 編集・削除

全人類の真のお父様さん、それでは今度ミサで会ったら名乗り出てください。そうして他人だとハッキリしたら謝りますし、ここにも報告しますから。

管理人 (10/29 23:06) 編集・削除

そのようなわけで、全人類の真のお父様さんが名乗り出るまでここは一時凍結したいと思います。それまで書き込みはご遠慮下さい。

管理人 (11/21 17:53) 編集・削除

本日、聖ピオ十世会のミサがありました。「全人類の真のお父様」が出席していたかどうか知りませんが、名乗り出る人はいませんでした。以上、報告いたします。

この支配からの卒業2

先月、身近にいる「ボス」の目を気にして聖ピオ十世会のミサに来られない信徒がいるのではないかという思いから、この支配からの卒業なる記事を書いてみた。今回はその第2弾である。

例の「ボス」は、聖ピオ十世会に否定的な見解を示して以来、他のところでトリエント・ミサに与れるよう何かしてくれたのだろうか。あるいは、小教区でラテン語ミサが行われるように、グレゴリオ聖歌が歌われるように、何か骨折ってくれたのだろうか。

もしかすると、その「ボス」のせいで、トリエント・ミサへの興味が満たされることのないまま、何年何ヶ月かの年月が虚しく流れてしまっただけではないのか。

今週末も大阪と東京でミサ聖祭があるので、すぐにも自問自答してみてほしい。

この支配からの卒業

聖ピオ十世会のトリエント・ミサに与る信徒の数が増えていることは以前にも触れたが、潜在的にはもっと多くの信徒がこの伝統的なミサ聖祭に与ることを希望しているのではないかと思われる。

その中には、所属する教会や勉強会やネットのコミュニティーで、ボスのような人たちから「あんなところに行ってはいけない」と言われ、くじけてしまっている信徒もいることだろう。

しかし、小野田神父様のブログなどを通じて、身の回りの誰よりも聖ピオ十世会のことを知っているのに、なぜよく知りもしない「ボス」の意見に振り回されているのか。新しいミサの問題点を誰よりも知っているのに、どうして「ボス」に気兼ねして与り続けなければいけないのか。

今月のミサも近づいているので、すぐにも自問自答してみてほしい。

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誰が堂々としているのか

教皇ベネディクト16世により聖ピオ十世会の4人の司教に対する破門宣告が無効とされてから、もうすぐ1年になる。

今となってはそれほど力を入れる必要はなくなったが、かつて小野田神父様は、ルフェーブル大司教と4名の司教が教会法上破門に値しなかったことを訴えるために、多くの文書を翻訳・紹介し、自らも何度も記事を書いては公表してきたものである。私も微力ながら破門宣告が不当であることを何度か訴えた。

そんなある日、「破門でもいいではないか、なぜ小野田神父様のように堂々としないのか」と私に噛みついてきた人がいた。

普通に考えて、カトリックのどんな司祭やどんな信徒にとっても、「破門でもいい」などということはない。それが単なるレッテルであったとしてもだ。

また、「堂々とし」ていることが、破門と言われても口答えしないことを意味するならば、現実の小野田神父様には全く当てはまらない。先に挙げた数々の努力を知る者にとっては明々白々である。果たしてどのようにして「堂々」たるイメージを作り上げたのかは、今でも謎だ。

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ヨゼフ・ジェンマ Eメール URL (01/27 01:06) 編集・削除

質問があります。

1. 「『破門でもいいではないか、なぜ小野田神父様のように堂々としないのか』と私に噛みついてきた人」とは私のことだと思いますが、そうでしょうか。

2. 相手を匿名化した上で批判を加えるという行為、しかしそれを読んだ本人には容易に「これは私のことだ」と分かるだろう形でのそのような批判行為は・・・やってて気持ちがいいですか?

管理人 (01/27 23:48) 編集・削除

1. いいえ。
2. 別に。

ヨゼフ・ジェンマ Eメール URL (01/28 23:44) 編集・削除

ご回答ありがとうございました。
あなたは小さな嘘さえつかないだろうから、
私の勘違い、早とちりだったのでしょう。
失礼しました。お赦しを。

部外者 (01/29 23:48) 編集・削除

まったくの部外者なんで無視されても罵倒されても結構ですが、誰でも閲覧できるブログに書かれているんで・・・・。

今回含めて、これまでの貴方の人へのレスを閲覧しましたが、冷たいというか、なんとも礼節のかけらもないというか、コミュニケーション能力の低さ(失礼)というか、傲慢に思えますな。

カトリックカトリック言っている割には貴方のレスや文章からアガペーを感じるのは難しい。

愛想笑いしろとは言わないが、もう少しレスを読んだ相手がどう感じるかを熟慮された方がよいかと・・・。

管理人 (01/30 06:43) 編集・削除

ヨゼフ・ジェンマ氏に対しては、いろいろ言い返したいことがあるのを極力抑えた結果があの返事になりました。不快感は隠しておりませんが、言葉を慎んでいるのも確かです(部外者さんと違って)。

このようなスタイルでも、「大分我慢しているね」と、私の心情が読み取れる方々もいるのですが、あなたがそのうちの一人でないのは残念です。

「あう」「まり」なる人物による荒らしコメントについて

昨日の午後3時頃、「あう」というハンドルで3件、「まり」というハンドルで1件のコメントが立て続けに書き込まれた。同一IPからの書き込みである。何でも小野田神父様のブログにコメントをして、相手にされなかったという理由でこちらにやって来たようだ。

コメントの内容はエントリーのトピックと無関係であり、脱線とすら呼べないものであった。そこへまた別の話題を持ち出すのだから、クセが悪いとしか言いようがない。

また、聖ピオ十世会の立場や神父様の書いたことを理解した上で不同意、というのではなく、最初から頭に入らないようで、しかも、いろいろな解釈を試みることもせず決めつけるタイプと思われる。

こういう人物を相手にする時間があったら、私はカトリック教会のためにも、拉致被害者とその家族のためにも有益なことができると思うのだが、さてどうだろうか。

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荒らしと認定

例の pinpinkorori 氏からまたコメントがあった。私の指摘を少しは気にしたのか、いくつか修正を入れてから投稿したようだが、これもまた長すぎる。

それ以上に問題だと思うのは、日記の主である私とコミュニケーションを取ろうという気が無さそうだ、ということである。前回のコメントでは、私が説明不足と指摘した箇所以外の質問には全く答えていない。しかも、私の返答を待たずに次を書き込んでいる。

要するに、自分の目的のために他人の日記を利用しているだけなのである。このような書き込みは、荒らし行為と言わざるを得ない。コメントを受け付けている以上、ある程度不快な書き込みも甘受しなければならないとは思うが、他人に利用されるのは御免被る。

これだけでなく、pinpinkorori 氏による、真面目な意図があったとは思えない書き込みが余所でもあったことを公表しておこう。1つは、小野田神父様のブログで、ルフェーブル大司教の伝記 11.3.2. 衰退する司教区(その2)に対するコメントである。もう1つは、FSSPX JAPAN BBS で立てられた、ルフェーブル大司教と題するスレッドである。後者は、私が pinpincorori 氏に返答した10日後に立てられていることに注目して欲しい。

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pinpinkorori Eメール URL (06/28 01:35) 編集・削除

小野田氏は、聡明なのでぜひともHEGELの絶対精神が自らを展開しているのが世界史であり、世界史は真理を自ら運動として表現する」という弁証法論理学をすすめます。そうでないと第2バチカン公会議の論理が理解できないと思います。
イエスキリストの真理は、あるいは教会の絶対性は、Lefevbreや凡庸な人々が考えるような静的で固定化したものでなく、動的な運動のなかで自らを実現するということです。当然自らのうちに対立物をはらみ(いわゆる矛盾をはらみ)それによって発展し統合されるのです。そのなかには新しいものもあり古いものも当然あるわけです。しかし統合されたときには真理が自らを実現したときには一つとなります。この生きた論理が第2バチカン公会議の論理なのです。
たとえば「教会の外に救いはない」と静的に固定化してとらえることは第2バチカン公会議の論理ではなく、と同じく「教会の外にも救いはある」ということを単純かつ平板に固定化して考えることも間違いです。
「教会の外にも救いがある」ということは、教会の内部にいる信者にとってこれまで教会に外面的に属するだけで救いが保証されていたこと(教会の外に救いはないのだから教会の内部にいれば救われる)が、救いの論理が内面化されて外面的に所属するだけでは救いを保証しなくなったことを意味します。キリストのように愛しあいなさい。神を全身全霊で愛し隣人を自分と同じように愛さなければ、救いの保障がなくなったのです。第2バチカン公会議により信者は内面の基準によって(「ほんとうに」(内面から)神を愛したか?)救いが量られることになった。かえって厳しくなったのです。他宗教との関係も相互理解の運動になっています。つまり他宗教への理解が深まれば深まるほど自分のイエスキリストへの信仰が深まるという相互の運動なのです。これをとらえなければ他宗教との対話などは無意味です。もちろんイエスキリストを信じれば早く一気に救われます。これは疑いのないことです。

管理人 (06/28 22:10) 編集・削除

小野田神父様に勧めたいことを、何故小野田神父様のブログではなく、わざわざこの日記に書くのか、凡庸な私にも分かるよう説明してくれますか?

pinpinkorori Eメール URL (06/29 00:18) 編集・削除

はい。ありがとうございます。
小野田神父様の考えかたと似ていると思いましたからです。
小野田神父様のブログにも書いています。
が、以前ここに書いたことがとりあげられていることが、PC不慣れなため2か月半も知らず返答もさしあげられず失礼したからです。それで一気に返答しようとしたからです。議論されて「知的生活」をめざしていられるので参考になればと思いました。しかしご迷惑ならばしません。
概念や思想を死んだ固定の静止状態でなく生きた運動のとらえかたをぜひともおすすめしたかったからです。
たとえば関心をおもちの聖伝についても典礼についても、第2バチカン公会議は一度も否定したことはない事実は「すべてのもの(つまり例外なく)を生きたものにする」という理由があったからです。1988.07.02前教皇は破門直後にいいます。「Lefebvreたちの離教行為の本質は、聖伝についての不完全で矛盾した概念のうちに認定することができます。
1)聖伝についても「生きている」という性質をとらえかたをしないので不完全であります。」と前教皇自発教書4はいう。「聖伝は使徒たちから出てそして教会において聖霊の助けによって「進歩する」。実際伝えられた事柄や言葉の理解は、それを心のなかで思いめぐらす信者の黙想と研究によって、霊的な経験の深い理解によって、司教職の継承とともに真理の確かなカリスマを受けた人々の宣教によって、深まります。(啓示憲章2-8)
2)教皇と司教団によって構成される教会の一般教導権に反対する聖伝という考えは矛盾しています。キリストが教会の一致を託されたところの実際の使徒ぺトロの位置にあるものとの教会的な絆を断絶していながら、同時に聖伝に忠実であることは不可能です。(前教皇自発教令)
「破門についても」「必要の状態についても」「情状酌量についても」(FellayさんはHoyos枢機卿とのやりとりでAssisiの集会の問題性について言及されていませんが?)
すべてのこれまでの議論はHoyos枢機卿の現実の教導権を超えた教導権を認めず、
小野田さんのいう「それは教皇様が(或いは公会議が)この地上では最終的に判断をすることでしょう。」で結論がでているではないでしょうか?
最後に管理人さんに質問します。
教皇を無視して司教を叙階した場合どの教会法の適用なら現在の教会の外にいる状態の破門を自認できますか?(昔なら教皇が破門というだけで済んだと思いますが)

管理人 (06/30 00:11) 編集・削除

>しかしご迷惑ならばしません。

迷惑です。これまでの投稿も迷惑でしたし、おそらく今後の投稿も迷惑でしょう。

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