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司祭はいつどこでどのように「転向」するのか

ふと思うのだが、いったい司祭は、何をきっかけにして、天使祝詞の口語訳に問題を感じたり、グレゴリオ聖歌を歌うようになったり、跪きの意義を見出したり、煉獄や地獄について説教しなければと思うようになったりするようになるのだろうか。

例えば、信徒が司祭のもとに行って、教皇の回勅なりトマス・アクィナスなりカテキズムなりの一節を指差して、これこれが正しいのではないかと問いただしたらどうだろうか。その司祭は上手く返答することができないかも知れないが、きっと全面的な同意もしないだろう。

おそらく、司祭が自発的に何かを変えようとすることはまずない。従って、何か強制的な力が働かなくてはならない。

可能性があるとしたら、将来、聖ピオ十世会のミサに多くの信徒が流れて地元司教の脅威となり、同じ日にトリエント・ミサをぶつけて信徒を奪回すべく、司祭を指名してその捧げ方を学ばせるときぐらいだ。その司祭に限っては、伝統的ミサと調和する信仰を期待できるようになるだろう。

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