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召命が減ったのを現代社会のせいにしてもいいけれど

カトリック教会の召命は、世界のどこかでは増えているらしいが、先進国では概ね減少傾向にあるようだ。

その原因の一つとして現代社会のあり方を挙げるのは、それほど間違ってはいないだろう。世俗化やら物質文明やら、思い当たることはいくつもある。

しかし、そのような現代社会に対して、「開かれた教会」などというスローガンで迎合したことへの反省はなくてよいのだろうか。

正平協には正平協の辻褄がある2

伝統派のカトリック司祭や信徒はときどき、「ノヴスオルドの司祭」という言い方をする。

これは、単に「ノヴスオルド・ミサを捧げている司祭」を意味するものではない。罪・贖い・ミサ聖祭・秘蹟・司祭職などについて、伝統的養成とは異なる体系を身につけた司祭という含みがある。

こうして、「昔のミサでは司祭が会衆に背を向けていた」「これからは教会の外に目を向けなければいけない」などと教えられ、受け入れてきた司祭たちなら、正平協の活動に聖職者としての使命を感じることすらあるだろう。

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正平協には正平協の辻褄がある

正平協というと、カトリックの聖職者が本業を差し置いて力を入れている活動と思う人がまだ多いかも知れない。

だが、そのような人たちが抱く司祭像は時代遅れだ。なぜなら、第二ヴァティカン公会議で司祭職のあり方が変わったからである。

具体的には、司祭職の第一の目的が福音宣教となった。祭壇で犠牲を捧げることが第一だったのは昔の話だ。

新しいミサもまた、新しい司祭職を後押しするものである。司祭は祭壇から会衆へと向きを変え、更に教会の外に目を向けるようになった。

つまり、正平協の活動は、公会議後のカトリック教会が掲げる司祭職と調和したものであり、立派な本業なのである。

従って、口先で公会議と新しいミサとを受け入れると言いながら、正平協だけを受け入れないカトリック信徒こそがねじれているのだ。

さて、ここまでの文章が正平協擁護のように読めて驚いたかも知れないが、それはただの技巧なのでご心配なく。

何にせよ、これだけ密接に結びついているものから正平協の活動だけ取り除けというのは無理難題であり、正平協を批判するなら第二ヴァティカン公会議も新しいミサも、というのが私の結論である。

ドミニク、ニク、ニク

新しい典礼暦によれば、今日8月8日は聖ドミニコの祝日だそうだ(ちなみに、1962年版トリエント典礼のミサ典書に基づくカレンダーでは8月4日)。

さて、この聖人はアルビジョワ派異端の撲滅に尽力したことで知られているが、現代のドミニコ会は何をしているであろうか。

東京大司教区ウェブサイト内の渋谷教会の案内には、次のような紹介文がある。

キリスト教一致祈祷週間には、近隣の日本基督教団聖ヶ丘教会・渋谷バプテスト教会と一緒に合同の祈りを捧げ、エキュメニズムの実践にも力を入れております。

ドミニコ会は大丈夫だろうか。

反正平協のカトリック信徒はどこまで反共か

第二ヴァティカン公会議は、ロシア革命後初めての公会議であるばかりでなく、東欧や東アジアに共産主義国家が次々と誕生して間もない時期に行われた。いわゆる「冷戦」の時代である。

このような時代背景を考えれば、共産主義の問題を話し合い、これを断罪するというのは、この公会議が開かれる第一の理由であってもいいくらいのものだ。実際に、司教たちから共産主義を排斥するための文書を起草するよう求める声が挙がり、数百名分の署名を提出している。

しかし、この署名は無視され、無かったことにされた。どのような勢力が公会議をリードしていたかが垣間見える話ではないか。詳しい顛末はルフェーブル大司教の伝記(聖ピオ十世会創立者の伝記 12.3.7.共産主義を排斥しなければならないという要求)を参照されたい。

この記事が反正平協のカトリック信徒の目に触れるのは何ヶ月後か何年後か知らないが、この事実を知ってもなお第二ヴァティカン公会議に疑念を抱かないとすれば、反正平協を気取ってはいてもさほど反共ではないのだろう。

エキュメニストはずるくないか

公立学校や教育行政に携わる教職員でも、自分たちの子息は私学に通わせている、ということが多々ある。まるで抜け駆けのようで、どことなくずるい印象を受ける。

しかし、もちろんルール違反ではない。また、個別に見れば、私学を選ぶもっともな理由もあるだろう。

一方で、やれエキュメニズムだ対話だ交流だと、まるでどの宗教も差がないかのようなメッセージを発信しながら、自分たちの救霊に必要な秘蹟はせっせと受けるカトリック信徒については、言い訳のひとつも見つけてやることができない。

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あまり知られていない教皇ベネディクト16世の過去

前回の記事(The Rhine flows into the Tiber を知る人知らぬ人)を読んだならば、「教皇ベネディクト16世もドイツ人神学者だが、そのあたりはどうなっているのか」という疑問が当然浮かぶであろう。

覚えている人も多いだろうが、教理省長官時代には保守派・正統派の神学者として評判だったのは確かだ。天国の門でラーナーとキュンクの異端性を厳しく審問した聖ペトロが、ラッツィンガーには逆に叩きのめされたというジョークがあったほどである。

しかしながら、もともとはラーナーと行動を共にしていた進歩派神学者であったということも事実である。嘘だと思うなら Ratzinger Rahner で画像を検索してみるとよい。ネクタイ姿の二人が並んで座っている写真が何点か見つかるはずだ。

ここに至って、「どちらが本当の姿なのか」と混乱するかも知れないが、「心は伝統派、頭は進歩派」という人物評が参考になるだろう。

The Rhine flows into the Tiber を知る人知らぬ人

近頃、レヴェイダ枢機卿教理省長官の後任として、ミュラー司教が就任するというニュースがあった。

ところがこの人物については、かつて著書の中で聖変化を否定したとか、聖母マリアの終生童貞を否定したとか、解放の神学の擁護者であるとか、よからぬ噂が入ってくる。

そのため、複数のカトリック信徒が The Rhine Flows into the Tiber という本のことを思い起こしていた。

彼らがこの書名を引いて言わんとすることは何か。それは、「またドイツからローマにリベラル神学者が流れてきてしまった」ということである。

私は読んだことがないので人にも読めとは勧めないが、ドイツの進歩派神学者たちが第二ヴァティカン公会議に多大な影響を与えたとするこの書物の存在くらいは知っておいてよい。

「スンモールム・ポンティフィクム」5周年は祝されるか

使徒書簡「スンモールム・ポンティフィクム」が発表されて、今日で5年になる。

明日のミサの説教の中でこの話題に触れる司祭はどれだけいるだろうか。この話題が出なかったと気づく信徒はどれだけいるだろうか。

1986年のアッシジで起きたことを動画で観る

かねてより、1986年のアッシジでは天主の第一戒に反することが多々行われたと聞いており、わずかながら写真も見たことがあった。

それでも、最近になって、当時の映像(Vidéo - Faux oecuménisme et vrai scandale : Assise, le 27 octobre 1986)を観たところ、聞きしにまさるおぞましい光景が繰り広げられていたことを知った。

明日、アッシジで開催される世界平和祈祷集会では、ここまで酷いことは繰り返さないと信じたい。

しかし、この集会を開催することによって、真の宗教であるカトリックの教皇が、異教の指導者たちと同格であるというメッセージを世間に送ってしまうことは避けられないであろう。