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「日本カトリック神学院の養成理念と指針」を読んでみた

カトリック中央協議会から、『キリシタン時代の司祭像に学ぶ』という小冊子が出ている。

それだけだったら見向きもしないが、「日本カトリック神学院の養成理念と指針」という文書が付いているということなので、興味を抱いた。だが、200円程度の小冊子を、送料と送金手数料をかけてまで取り寄せるものでもあるまい。

その後、何の気なしに四谷のドン・ボスコ書店を訪れたとき、この小冊子が平積みになっていたのを見つけ、めでたく手にいれることができた。今のところパラパラと目を通した程度だが、そのうち内容について書きたいと思っている。

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itan Eメール (08/31 20:00) 編集・削除

このようなものを続けることを禁じる

従わない場合、呪われよ

「正平協問題の根本はどこにあるのか」の後始末

昨年、「正平協問題の根本はどこにあるのか」と題して6つほどの記事を書いた。書いたといっても、ほとんどがリンクによる記事紹介であった。しかも明確に終了が宣言されないまま途絶えている。

ネタ切れということでもなかったのだが、あれ以上続けるとトリエント・ミサや聖ピオ十世会の宣伝となっていくのは確実だった。そのことを避ける理由は全くなかったのだが、そうするとカテゴリ分けの問題が生じるので、同じタイトルでは続けにくい。そのようなことを考えているうちに時間が経過してしまった、というのが実情である。

しかしながら、敢えて宣伝しなくても、聖ピオ十世会が正平協の対極にいることに、一部の人は気がついてくれているようである。そして、無理解な信徒たちが「反抗」と呼んでいるものが、実は正平協的な司祭になってしまわないための「抵抗」である、ということにも。

実際、どの司祭も明確に反共であるし、正統な教え、聖なる典礼、グレゴリオ聖歌、修道服などなど、カトリックの共同体として望ましいもので満ちているのだから、気がつく方がむしろ自然だと私は思うのだが、どうであろうか。

参考:
正平協問題の根本はどこにあるのか
正平協問題の根本はどこにあるのか2
正平協問題の根本はどこにあるのか3
正平協問題の根本はどこにあるのか4
正平協問題の根本はどこにあるのか5
正平協問題の根本はどこにあるのか6

正平協問題の根本はどこにあるのか6

今回は、聖ピオ十世会のウィリアムソン司教がアルゼンチンの神学校に異動する直前に書いた書簡「カール・ラーナー、第1の過失者」を紹介したい。信仰が変わると司祭職のあり方まで変わってしまうということが、簡潔に説明されているからである。

以前に正平協問題の根本はどこにあるのか4で紹介したフライヤーは、これを図式化したものであろう。

正平協問題の根本はどこにあるのか5

もしも新しいミサが新しい司祭職に結びついており、新しい司祭職が正平協の活動を助長しているのだとすると、これを断ち切るにはトリエント典礼への回帰が有効なはずである。

トリエント・ミサでは、司祭は基本的に会衆に向き合わない。会衆に聞こえないような小さな声で典文を唱える。信徒による朗読も、平和の挨拶も、共同祈願もない。

こうなると司祭は、会衆よりも天主を意識し、犠牲を捧げる者としての自覚を否応なくさせられることだろう。特に、教会の脇祭壇で、侍者だけがいて会衆のいないミサを行ったならば。

実際に、トリエント・ミサを捧げて初めて司祭職というものが分かった、と告白する司祭もいる。短い引用だけだったので詳しいことは分からないが、そういうことは十分に起こりうる気がする。

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正平協問題の根本はどこにあるのか4

これまで紹介したリンク先の文書を面倒がらずに読んだならば、ミサと司祭職とが関わっていることは了解されたと思う。これについては典礼秘跡省局長のランジス大司教も認めるところである。再び小野田神父様のブログから新しいミサについて、典礼聖省の新しい事務総長ランジット大司教様のインタビューを参考にされたい。

ところで今回は、理解を助けるための資料を紹介しようと思う。聖トマス・アクィナス神学校のサイトで公開している Liturgical reform というフライヤーである。ミサや司祭職など、項目ごとに図式化してあり、とても分かりやすいので是非利用して欲しい。

実は日本語訳も用意してあるが、小野田神父様が自由奔放に訳している部分に違和感を覚えるかも知れない。それでも十分役に立つはずである。

正平協問題の根本はどこにあるのか3

かつて、カトリック司祭職の概念はどうなっているのかという雑文を書いた。司祭とはまず奉仕者である、と教え込まれた司祭たちの今後の働きについて心配したものである。

この懸念は、自らをまず労働者と規定した学校教師の有りようを憂える人ならば、容易に共感してもらえるものと思う。

正平協問題の根本はどこにあるのか2

前回の正平協問題の根本はどこにあるのかでは、司祭職からの逸脱ではなく、現在の司祭職そのものが問題であることについて触れた。政治的発言といった現象に振り回されがちだが、やはりその原因の方に目を向けたいものだ。

もう一つ資料を付け加えるならば、ルフェーブル大司教の公開書簡「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ」の第7章新しい司祭職を強く推したい。新しい司祭職がなぜ政治的活動へと結びついていくのか、きっと理解の助けになるはずである。

正平協問題の根本はどこにあるのか

日本カトリック正義と平和協議会(正平協)といえば、あまり好い評判を聞かない団体である。その活動に熱心な司教・司祭たちは本来の司祭職のあり方から逸脱している、と考える人は多いだろう。私もそう思っている。

だが、もしも、彼らは神学校で学んだ司祭職から逸れてしまったのだ、と考えているのならば、私の見解とは異なる。私に言わせれば、彼らは教わった司祭職を叙階後も忠実に実践している。ただ、その司祭職が本来のものから変質している、というところに問題がある。

私はそれを大雑把に、「公会議後の司祭職」「新しいミサの司祭職」と呼んでいるのだが、私の説明などよりも、小野田神父様のブログから第二ヴァチカン公会議の「洗礼の秘跡による信徒の祭司職」についてを読んでもらうのがいいだろう。それにしても、これが丁度2年前の記事というのは何かの偶然であろうか。

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