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ミサ破壊兵器6選

紹介したいと思いながら、長いこと忘れていた記事がある。Paul Nichols というブロガーが、ミサ聖祭を破壊する「兵器」を列挙した風刺画(Weapons of Mass Destruction)である。日本の教会ではあまり見かけないものも含まれているように思うが、とても興味深い。

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諸聖人の祝日に思う

今日は諸聖人の祝日である。この祝日はこういう意義がある、このようにお祝いをした、教会はこういう具合に諸聖人を愛している、といったことをブログに書くカトリック信徒もいることだろう。

だが、ミサ典書から閉め出された諸聖人についても、何かしら心に留めておいてほしいものである。

ミサ聖祭中のパドレ・ピオの写真について

ピエトレルチナのパドレ・ピオのことを伝記などを通じて知っているならば、あるいはその年代だけでも頭に入れているならば、聖人が生涯捧げたミサがトリエント典礼であることは分かるだろう。

しかし、インターネットでミサ聖祭中のパドレ・ピオの写真を探すと、一目でトリエント・ミサだと判るものは少ない。

というのも、多くの写真が、横側から撮ったものであったり、会衆へと向きを変えたとき(ミサ中数度ある)のものであったり、あるいは晩年に行った対面式のミサのものであったりするからである。

意識的に見るならば決して判断が難しいわけではないが、指摘されるまでは気がつかない人が結構いるのではないか。機会があったら確認してみてほしい。

ヨゼフ・ピタウ大司教のコラムを探したら

元上智大学学長のヨゼフ・ピタウ大司教とは、大聖年の年末にローマでお会いしたことがある。あれから9年。思えば随分時間が経ったものだ。

その大司教のコラムが読売新聞で始まるということを、先週、とあるニュースメールで知った。読売は購読していないが、ネットで読むことができるだろうと高をくくっていたら、検索しても見つからない。今のところは掲載されていないようである。

しかしながら、検索の途中で、3年前の記事が見つかった。立命館大学の「現代社会と宗教 世界編」というリレー講義に登場していたのだ。記事は講義詳報とはあるが、講義全体からすれば要約のはずである。ともあれ、第2ヴァティカン公会議の大まかな内容を短い時間で把握するのには役に立つだろう。

大司教はその公会議を絶賛しているようだが、私は同意しかねる。そこに書いてあることの一々が、正平協を含めた、カトリック教会内に起きている様々な問題の、直接間接の原因だと思うからである。

誰も跪いてはならぬ

トリエント・ミサに与る信徒は、とにかく跪くことに慣れている。御聖体を拝領するときはもちろんのこと、祈りを始めるとき、司祭からの祝福を受けるときなど、スムーズに跪きの姿勢を取ることができる。

それはいいのだが、必要のない時にまで跪くのを見かけることもよくある。例えば灌水式で聖水を受けるときや、香炉係から香を受けるときなどである。

いくら祝別されているとはいえ、対象は水や煙である。或いは司祭や香炉係に対する礼として起立するのかも知れないが、いずれにしても跪きは行き過ぎである。この日記を読んでいる信徒だけでも気を付けてほしい。

コメント一覧

A FOX URL (10/15 08:23) 編集・削除

おはようございます。

記事の条件に当てはまりましたので(笑)
(余談ですが、こちらに訪問するのは、アクセス件数上げるためのクリックの目的がほとんどです。)

私の場合、ある経験なお年寄りから、
そのようにするとアドヴァイスをいただきました。
おそらく、香を受けるとき、聖水を受けるとき、
そのようにして主に敬意を表していたのかもしれません。
もしくは、単なる勘違いかもしれません。
今となっては、確認することもできません。
そのご老人は、
親切のつもりでアドバイスしてくださったので感謝しています。
以後気をつけます。
失礼いたしました。

祈りのうちに

A FOX (10/15 20:04) 編集・削除

訂正

ある”敬虔”なお年寄りから
でした。

伝統的なノヴスオルド・ミサ?

今日は東京のカテドラルでカトリックアクション同志会主催の荘厳司教ミサが行われたはずである。行ってないから確認はできていないが、まさか中止ということはあるまい。

さて、その荘厳司教ミサは、現行のノヴスオルド・ミサのラテン語規範版であって、伝統的なトリエント・ミサではない。多くの参加者はそのことを理解しているだろう。

しかし、主催者側の説明は、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」以降使われるようになった「通常形式」という語を加えているものの、依然としてすっきりしない。

カトリックアクション同志会では、カトリックの伝統的なミサのひとつであるグレゴリオ聖歌を歌って行なわれる、ラテン語ミサ (荘厳司教ミサ)を通常形式で主催しています。

ラテン語とグレゴリオ聖歌で捧げられるこのミサを「ラテン語ミサ」と呼ぶことはできるだろう。しかし、ノヴスオルド・ミサを「伝統的なミサ」とするのはどうであろうか。

他にも、読唱ミサと歌ミサとをそれぞれ「ひとつ」として数えているとか、東方典礼を含めた伝統的典礼の中の「ひとつ」であるとか、いろいろな解釈を試みてみたが、どうしても引っかかってしまう。

もしかしたら、辻褄の合う解釈ができる頭脳明晰な人がどこかにいるかも知れない。だがその場合でも、この説明に改良の余地があることは同意してくれるものと思う。

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ミサ典書から閉め出された諸聖人

トリエント・ミサの式次第を注意深く読むならば、聖人(天使も含む)の名がこれでもか、というほど列挙されていることに気がつくだろう。例えば、コムニカンテスの共通部分は次のような具合である。

聖なる一致において、われらは、先ず、わが神なる主、イエズス・キリストの御母、終生童貞なる光栄のマリアの記念を、つつしんで行い奉る。また、その浄配聖ヨゼフ、主の聖なる使徒、殉教者、ペトロとパウロ、アンドレア、ヤコボ、ヨハネ、トマ、ヤコボ、フィリッポ、バルトロメオ、マテオ、シモンとタデオ、更に、リノ、クレト、クレメンテ、シクスト、コルネリオ、チプリアノ、ラウレンツィオ、クリソゴノ、ヨハネとパウロ、コスマとダミアノ、および、すべて主の聖人らの記念を行い奉る。願わくは、かれらの功徳ととりなしとによって、われらに、御保護の助力を与え給わんことを。同じわれらの主、キリストによりて。アメン。

一方、ノヴスオルド・ミサでは、告白の祈りと信仰宣言の中で聖母マリアの名を唱える程度で、他は覚えがない。ただ、もう何年も遠ざかっていて(唯一の例外は結婚式であった)、記憶にないだけかも知れないので、正確を期すため『キリストと我等のミサ』という小冊子を久々に手に取って調べてみた。

そこで判ったのは、第一奉献文を使わない限り、ミサ全体を通じて、聖母以外の聖人の名はまず出てこない、ということである。また大天使聖ミカエルへの祈りを含む「聖会のための祈」も唱えられなくなっている(大天使聖ミカエルの祝日に思う参照)。このことは、聖人崇敬を認めないプロテスタントに迎合したという以外に、どのような説明があるというのだろうか。

平和を求めるミサだけでなく

昨日、カトリックアクション同志会主催の荘厳司教ミサの案内ハガキが届いた。見ると「平和と正義を求めて」というサブタイトルがある。これは正平協に対する当て付けと思われるが、それはそれでいい。

しかし、どの部分で正平協との差別化を図っているかと言えば、これといって見あたらない。平和祈願のミサならば、正平協でも行っているはずである。

ハガキという限られたスペースでは、十分に表現できなかったこともあるだろう。ただ、文面から知りうる限りでは、4年前に書いた司教団批判(ロシアの奉献を求める署名運動)が、このミサの主催者側についても言えてしまうのである。

ノヴスオルド・ミサの出生秘話

ある女が夫以外の男を家に招き、しばらくの間泊めていた。後に女が身ごもって産んだ子どもは、女にも似ていたが、連れ込んだ男とも似ていた。そういう話を聞いたならば、ほとんどの人は、女と男との間に何かあったものと思うだろう。それでも女の無実を信じようものなら、おめでたい奴と言われるだろう。

さて、カトリックのミサ典書を編集する委員会がプロテスタントの牧師6人を招き、オブザーバーとして期間中同席させていた。後に出されたノヴスオルド・ミサは、形式こそカトリックのミサを継承しているものの、その内容はプロテスタントの礼拝と似ていた。そういう話を聞いたならば、ほとんどの人は、牧師たちが新しいミサ典書の編集に関与したものと思うだろう。

ちなみに、この牧師たちの名前も判明しているし、パウロ6世と一緒に移っている写真も公表されている。彼らが単なるオブザーバーではなかったという証言(The Protestant Observers and the Compilation of the Novus Ordo)もある。

それでもプロテスタントの影響を認めたくないカトリック信徒は、少なからず存在する。

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主日と祝日とを聖とし、ミサ聖祭にあずかるべし

昨年の聖母被昇天の祝日に、カトリック信徒の靖国神社参拝についての見解(聖母被昇天の祝日と終戦記念日)を書いた。若干批判的なことを書いたものの、コメント1件をいただいた他は、知っている範囲では特に反応はなかった。

だが今年は、まるでその記事を意識したかのような案内がとあるブログで行われていた。実際に意識したかどうかは知らないが、読み比べたらきっとそのような印象を受けることは間違いない。

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