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ウッドストックに例えられるワールド・ユース・デイ

最近、ヴァティカンの信徒評議会次長が、オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に対し、ワールド・ユース・デイは「カトリック版のウッドストックではない」と語ったそうである。

果たしてその通りであるかどうかは、かなりの程度主観の問題なので、ここでは立ち入らない。

ただ、このイベントがどのような噂を立てられているかということだけは、はっきりしたと言えそうだ。

カトリック信徒のプライドはどこへ行ってしまったのか

受洗して1年か2年くらいの頃、フランス・ルルドにおける夥しい奇跡的治癒のうち、カトリック教会から奇跡と認定されているのはほんのわずかだという話を聞いた。

奇跡は教会の強力な宣伝材料にもなりうるだろうに、そう簡単に認めないところが、カトリック信徒としてとても誇らしかった。このような態度こそ、真の宗教に相応しいと思ったものだった。

このようなプライドを、カトリック信徒は程度の差こそあれ共有していると思っていたのだが、どうもそれは幻想だったらしい。

最近の、カトリック教会史上例がないほどに早かったり多かったりする列福・列聖は、以前に比べ奇跡がやすやすと認められていることを意味する。これに対して違和感を覚える聖職者や信徒の何と少ないことか。

コメント一覧

ちいさな信徒 (07/22 20:17) 編集・削除

ごもっともだと思います。
近頃のミサはいろんな楽器を使った楽団まがいの演奏でうるさくて、聖歌も変なメロディの一般の歌と変わらないもので、敬虔さも美しさも感ぜず、ミサにあずかった気がしません。
昔のミサは静かで真にキリストと一致して祈り、癒され
力を授かったものでした。
あのカトリックはどこへ行ってしまったのでしょうか。
開かれた教会とは賑やかで新興宗教にも似たカトリックの
ことなんでしょうか?

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ノヴスオルド・ミサはトリエント・ミサではない

トリエント・ミサに与るカトリック信徒のうち何割かは、ハンドミサルという携行用のミサ典書を持参する。

複数の出版社から出ているので、いろいろと種類があるのは当然のこととして、興味深いことが一つある。それは、1962年版はもちろんのこと、1940年代あるいはもっと古いミサ典書まで、どれも「現役」であるということだ。

というのは、この間に祝日の追加や朗読箇所の変更や典文の一部改訂はあったものの、それは小さな変更にすぎないため、結構古いミサルでもかなりの程度使えてしまうからである。

このように、トリエント・ミサは改訂されても依然としてトリエント・ミサ。ミサルもほぼそのまま使える。そういう時代がずっと続いていたのだ。

ところが、第二ヴァティカン公会議後、トリエント・ミサの改訂版ではないミサが造られた。ノヴスオルド・ミサである。そのことがどれだけ異例か理解できるだろうか。

新しい信徒にも古い公教要理書のススメ

渡部昇一氏の『英文法を知ってますか』という本に、次のようなエピソードが紹介されている。

早稲田大学の上田稔先生は戦後の比較的早い時期にイギリスとアメリカで学ばれ、博士号をとられた方である。アメリカの大学におられた頃、教会スラブ語のクラースに出たところ、その担当教授は新言語学の文法書を使ったのだがなかなかわかりにくい。上田先生はその前にイギリスにいた時に、伝統文法による教会スラブ語の文法書を持っていた。それだとわかり易い。クラースの者がそれを見て、「こっちの方がわかるじゃないか」ということになった。その意見を聞いた教授は、「本当は私もその方が便利なんだ」ということで、古い教科書を使うことになったそうである。

この話は、かなり前から繰り返し読んでいたはずなのだが、最近になって、自分の公教要理の体験と重なり合うことに気が付いた。

思えば、求道者だったころ、テキストは散文で書かれた要理書であった。その頃に「昔の問答形式の要理は無味乾燥だから」と聞かされたのが印象に残って、それから長いことそういうものかと思いこんでいた。

そして、洗礼を受けたずっと後になって、興味本位で古い公教要理を買い求めると、簡潔で分かり易いことに驚き、なぜこれを使わないのかと不思議に思ったものである。

まもなく受洗予定の求道者も、すでに洗礼を受けた信徒でも、古い公教要理を知らないならば、いつか借りるか手に入れるかして読んでみて欲しい。おそらくは同じような体験をすることだろう。

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こんなところに侍者がいたとは

注文しておいた中古の文庫本が届いたので、早速興味のあるところを拾い読みし始めた。

この文庫本には紙のしおりが挟まっていた。とても薄いので読書の邪魔にはほとんどならず、ある程度読み進めたところでやっと挟む位置を変えようかという気になったほどである。

そのとき、ふとそのしおりを見ると、どこかで見たような格好をした男の挿し絵があった。

スータンにスルプリを着用しているが、ローマンカラーはなく、顔がどことなく幼い。これは少年の侍者に違いない。思わぬ収穫だ。

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地震と津波による災害で家族と連絡が取れなくなった方々のために

カトリック信徒の間では、なくしものを探すときにはパドゥアの聖アントニウスに取りなしを願うとよいとされている。

実際には、なくしものだけではない。この聖人は、人捜しにも力を貸してくれると言われている。行方不明者はもちろんのこと、将来の配偶者探しにも一役を買い、「縁結びの聖人」という異名すらあるほどだ。

さて、報道によれば、11日の地震と津波による行方不明者が1万人を越えているとのことである。

家族が生きているか死んでいるかも分からない、という状態はとても苦しいことだろう。例え悲しい事実であっても、一刻も早く知りたいことだろう。

ただ、彼らの多くは聖アントニウスを知らないであろうから、カトリック信徒は代わりに祈ってあげてほしいものである。

世界中のカトリック信徒たちが日本のために祈っている

今回の地震と津波による被害は既に世界中で報じられているだけでなく、教皇ベネディクト16世の呼びかけもあって、多くのカトリック信徒が日本のために祈ってくれていることは間違いない。

しかし、分かってはいても実感が湧かないということもあろう。ならば、カトリックの掲示板に寄せられた声に目を通してみてはどうだろうか。

伝統派カトリックのサイト Angelqueen.org が主催するフォーラムでも、Japan 8.9 EARTHQUAKE and Tsunami というトピックが立てられ、この記事を書いている時点で39の書き込みがある。

また、被災地が秋田に近いこともあって、Japan quake epicentre near Marian site of Akita というトピックも若干の関心を集めている。聖母のメッセージと今回の災害との短絡的な結び付けは控えるべきだが、よくよく考えるに値するだろう。

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カトリック信徒が被災者のためにできることは何か

東北地方太平洋沖地震が起きてからというもの、何か書かねばと思いつつも、その被害の甚大さに言葉を失っているような有様であった。

もちろんカトリック信徒としては、月並みに「祈りを捧げよう」と書いて済ますこともできたかも知れない。

ただ、救助活動や支援活動に携わっている人々の連日連夜の働きを思うと、祈りを呼びかけるだけでは消極的に思えて仕方がなかったのも事実だ。

とはいえ、現実的な問題として、応援をするために被災地に行けるものではなく、義捐金も今日明日に役に立つわけではない。

その点、祈りならば、今すぐにも聞き届けられ、困難な状況にある被災者たちの助けになるやも知れぬ。そしてそれは、昼夜を問わず、世界のどこにいてもできる。

このように、祈ることの積極的な側面を思い起こし、被災者のための祈りを呼びかけたい。

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四旬節には四旬節そのものを考えてみたい

いよいよ昨日から四旬節が始まった。毎年のこととはいえ、四旬節をよく過ごすにはどうしたらよいかと迷うカトリック信徒も少なくないだろう。

インターネットでいろいろ探してみれば、どこかの司祭が作成した、あれをしろ、これをするな、といったリストが見つかるはずなので、それを利用したいところだ。

しかし、そこに書いてあるのは、案外実行が難しいことばかりだったりする。「何故そこまでしなくてはいけないのか」と疑問に思うこともきっとあるだろう。

そうだとしたら、四旬節について、また断食や犠牲の意義について学び直すべきときが来ていると思ってよい。

長年使っているミサ典書であっても、今改めて四旬節の説明を読むならば、分かっているようで分かっていなかったことを思い知らされるに違いない。私も思い知らされたばかりである。

宗教科教育の題材としてのナルニア国物語

オーストラリアでカトリックのとある家庭にしばらくホームステイしていたときのこと、ホストとその娘と一緒に映画「ナルニア国物語」の1作目を観に行ったことを覚えている。

聖書を読んだことのある人ならすぐに気が付くことだが、この映画には、受難や復活など、福音書の中のいくつかの要素が散りばめられていた。この作品が宗教科教育法の受講生の間で評判がよかった理由も、このとき初めて分かった。

しかし、同時に、「この程度のことを教えるのに、こんなに遠回りしなければならないのか」という感想も抱かざるを得なかった。

この映画を中学高校の授業で見せようと思えば3時間分は必要だが、それに比べて学べることは非常に少ない。エンターテインメントとしてはともかく、宗教科の題材としてはいかがなものだろう。

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