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聖ピオ十世会総長が来月ローマを訪問へ

聖ピオ十世会の総長フェレー司教は、教理省長官レヴェイダ枢機卿の「招き」(この部分は如何様にも解釈できるが)によりローマに行くことを、叙階式の説教(2011年6月17日、ウィノナで行われた叙階式でフェレー司教様がされた説教)の中で明かしていたが、その日付が聖十字架称讃の祝日9月14日に決まったそうである。

当日のことはどうなるか分からないが、何かよい知らせがあるよう祈るだけだ。

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だったらその前に

聞くところによると、元巨人軍の長嶋茂雄氏は並はずれてカンが鋭かったそうである。例えば「あのピッチャー、打たれるぞ」と言い出すと、かなりの確率で的中したらしい。確かにそれは凄いことではあるが、周りの者はこうつぶやいていた。「だったらその前に交替させればいいのに・・・。」

それはさておき、もう日本のカトリック新聞でも報道された通り、今年の6月下旬から7月上旬にかけて行われた聖ピオ十世会の神学校における司祭叙階式を、あるヴァティカン高官が「違法」と表明したとのこと。

海外のとあるブロガーはよほど嬉しかったのか、「ほら見ろ」と言わんばかりにこの話を紹介していた。

しかし、よく考えてみて欲しい。「違法」と認識しているならば、何か事前に手を打たなければいけないではないか。

にもかかわらず、叙階式を中止させようとも延期させようともせず、司教をローマに呼び出すこともなく、叙階を受ける神学生に聖職停止の脅迫もせず、信徒に不参加を呼びかけることもしなかった。そして、全ての日程が終わってしまってから口先で「違法」と言ってみせた。それが全てなのである。

仮にも聖ピオ十世会の批判者であるならば、「だったらその前に・・・」と当局の不作為を嘆くのが正常な反応というものだろう。

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ウッドストックに例えられるワールド・ユース・デイ

最近、ヴァティカンの信徒評議会次長が、オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に対し、ワールド・ユース・デイは「カトリック版のウッドストックではない」と語ったそうである。

果たしてその通りであるかどうかは、かなりの程度主観の問題なので、ここでは立ち入らない。

ただ、このイベントがどのような噂を立てられているかということだけは、はっきりしたと言えそうだ。

カトリック信徒のプライドはどこへ行ってしまったのか

受洗して1年か2年くらいの頃、フランス・ルルドにおける夥しい奇跡的治癒のうち、カトリック教会から奇跡と認定されているのはほんのわずかだという話を聞いた。

奇跡は教会の強力な宣伝材料にもなりうるだろうに、そう簡単に認めないところが、カトリック信徒としてとても誇らしかった。このような態度こそ、真の宗教に相応しいと思ったものだった。

このようなプライドを、カトリック信徒は程度の差こそあれ共有していると思っていたのだが、どうもそれは幻想だったらしい。

最近の、カトリック教会史上例がないほどに早かったり多かったりする列福・列聖は、以前に比べ奇跡がやすやすと認められていることを意味する。これに対して違和感を覚える聖職者や信徒の何と少ないことか。

コメント一覧

ちいさな信徒 (07/22 20:17) 編集・削除

ごもっともだと思います。
近頃のミサはいろんな楽器を使った楽団まがいの演奏でうるさくて、聖歌も変なメロディの一般の歌と変わらないもので、敬虔さも美しさも感ぜず、ミサにあずかった気がしません。
昔のミサは静かで真にキリストと一致して祈り、癒され
力を授かったものでした。
あのカトリックはどこへ行ってしまったのでしょうか。
開かれた教会とは賑やかで新興宗教にも似たカトリックの
ことなんでしょうか?

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トリエント・ミサの効果的な潰し方

近頃、ちらほらとトリエント・ミサが行われているという話を聞いている。司式司祭が高齢なのが気になるが、とりあえずは喜ばしいことである。

その一方で、とあるブログに、正確にはそのコメント欄に、これらのミサを潰すヒントが書いてあるのを見つけた。

要は、通りすがり氏がコメントしたように、どこそこのトリエント・ミサは聖ピオ十世会の関係者が絡んでいると、本当でも嘘でも噂を立てさえすればいいのである。巡り巡って司祭の耳に入れば、ミサの企画そのものが危うくなるだろう。

日本のカトリック教会におけるトリエント・ミサ衰退のため、通りすがり氏の今後の活躍が注目される。

ノヴスオルド・ミサはトリエント・ミサではない

トリエント・ミサに与るカトリック信徒のうち何割かは、ハンドミサルという携行用のミサ典書を持参する。

複数の出版社から出ているので、いろいろと種類があるのは当然のこととして、興味深いことが一つある。それは、1962年版はもちろんのこと、1940年代あるいはもっと古いミサ典書まで、どれも「現役」であるということだ。

というのは、この間に祝日の追加や朗読箇所の変更や典文の一部改訂はあったものの、それは小さな変更にすぎないため、結構古いミサルでもかなりの程度使えてしまうからである。

このように、トリエント・ミサは改訂されても依然としてトリエント・ミサ。ミサルもほぼそのまま使える。そういう時代がずっと続いていたのだ。

ところが、第二ヴァティカン公会議後、トリエント・ミサの改訂版ではないミサが造られた。ノヴスオルド・ミサである。そのことがどれだけ異例か理解できるだろうか。

新しい信徒にも古い公教要理書のススメ

渡部昇一氏の『英文法を知ってますか』という本に、次のようなエピソードが紹介されている。

早稲田大学の上田稔先生は戦後の比較的早い時期にイギリスとアメリカで学ばれ、博士号をとられた方である。アメリカの大学におられた頃、教会スラブ語のクラースに出たところ、その担当教授は新言語学の文法書を使ったのだがなかなかわかりにくい。上田先生はその前にイギリスにいた時に、伝統文法による教会スラブ語の文法書を持っていた。それだとわかり易い。クラースの者がそれを見て、「こっちの方がわかるじゃないか」ということになった。その意見を聞いた教授は、「本当は私もその方が便利なんだ」ということで、古い教科書を使うことになったそうである。

この話は、かなり前から繰り返し読んでいたはずなのだが、最近になって、自分の公教要理の体験と重なり合うことに気が付いた。

思えば、求道者だったころ、テキストは散文で書かれた要理書であった。その頃に「昔の問答形式の要理は無味乾燥だから」と聞かされたのが印象に残って、それから長いことそういうものかと思いこんでいた。

そして、洗礼を受けたずっと後になって、興味本位で古い公教要理を買い求めると、簡潔で分かり易いことに驚き、なぜこれを使わないのかと不思議に思ったものである。

まもなく受洗予定の求道者も、すでに洗礼を受けた信徒でも、古い公教要理を知らないならば、いつか借りるか手に入れるかして読んでみて欲しい。おそらくは同じような体験をすることだろう。

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アメリカの聖トマス・アクィナス神学校が窮地に

アメリカ・ミネソタ州には聖トマス・アクィナス神学校 St. Thomas Aquinas Seminary という聖ピオ十世会の神学校がある。同修道会はもとより、他の伝統派修道会からの神学生を受け入れ、これまで多数の司祭を輩出してきた。

だが、ここに来て深刻な問題が生じている。余りにも足りないのである。神学生の寝泊まりする部屋が。

近年増え続けている召命に対して、おそらくは相部屋などの措置でしのいできたものと思うが、もはや限界に達したようである。

増築か分校かを迫られた神学校は、ついに WILL YOU HELP OUR SEMINARY? という案内を信徒宛に出して、その反応からどれくらいの援助が得られそうかを調べた上で結論を出す模様だ。

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こんなところに侍者がいたとは

注文しておいた中古の文庫本が届いたので、早速興味のあるところを拾い読みし始めた。

この文庫本には紙のしおりが挟まっていた。とても薄いので読書の邪魔にはほとんどならず、ある程度読み進めたところでやっと挟む位置を変えようかという気になったほどである。

そのとき、ふとそのしおりを見ると、どこかで見たような格好をした男の挿し絵があった。

スータンにスルプリを着用しているが、ローマンカラーはなく、顔がどことなく幼い。これは少年の侍者に違いない。思わぬ収穫だ。

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地震の被災者のためにゲンキンのご協力?

今回の地震による被災者のための募金活動が、駅前で大々的に行われていた。これまで見たことのない規模だった。

そのボランティアの中の誰かから、「ゲンキンのご協力をお願いします」という声が聞こえた。

確かにこのような場所で集められるのは、物資でなく現金には違いない。とはいえ、いくら何でもあからさまではなかろうか。

だが、ほどなくして事態が飲み込めた。別の人から「義捐金」という声が聞こえたのである。もちろんこれが正解である。

あのような紛らわしい発音をする人は例外だろう、と思っていたら、実はそうではなかった。また別の2人が「ゲンキン」を要求していたに出くわした。

埼玉県内でもかなり東京寄りな地域での実話である。