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荘厳司教ミサの通な与り方3

荘厳司教ミサまであと3日となった。通な与り方の練習ははかどっているだろうか。

今日は Sanctus の部分に入る。Gloria や Credo のように頭を下げるところはない。最後の Benedictus qui venit のところで十字のしるしをして、歌い終わると跪く。それだけである。

ここでの跪きの指示はミサレットにはないと思われる。しかし、ここで跪いておかないと、聖変化のときに突っ立っていることになってしまうから、このタイミングは逃さないようにしたい。

さて、悩みどころは、聖変化の後の Mysterium Fidei で歌が入ることだ。

本来なら、主祷文 Pater Noster の手前の Per omnia saecula saeculorum まで跪いているところだが、妥協してこの歌のところで立ち上がるのがスマートだろう。

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荘厳司教ミサの通な与り方2

昨日の荘厳司教ミサの通な与り方1では Gloria のときの動作を説明したので、今日は Credo を取り上げる。

司式者が Credo in unum Deum と歌い出したら、Deo のところで頭を下げる。次に頭を下げるのは、Jesum Christum のときである。

途中、Et incarnatus est ... のところで跪き、Et homo factus est と歌ったら立ち上がる。トリエント・ミサでは皆が一斉に動くのでタイミングを逸することはないが、荘厳司教ミサでは独りということもありうるので細心の注意を払わなくてはならない。

その後は、また simul adoratur のところで頭を下げ、 Et vitam venturi saeculi のところで十字架のしるしをしたら Credo については終わりである。

当日配られるミサレットには、これらの動作の一部または全部が記されていないであろうから、周りから注目されること請け合いである。しかし、くれぐれも練習を怠らないように。

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荘厳司教ミサの通な与り方1

いよいよ今週の土曜日にカトリックアクション同志会主催の荘厳司教ミサが行われる。年に一度のこのラテン語ミサを心待ちにしている人も多いことだろう。

ただ、いかにラテン語とグレゴリオ聖歌とで捧げられるとはいえ、やはり新しいミサであることに変わりはない(伝統的なノヴスオルド・ミサ?参照)。そのため、聖ピオ十世会の巡回聖堂でトリエント・ミサに与る信徒は、だんだんとこのイベントに参加しなくなるようだ。

では、もしも何らかの理由で荘厳司教ミサに与らざるを得ないときはどうするのか(何もそこまで嫌がらなくても)。そのときはきっと、ノヴスオルド・ミサで簡略化された所作を補いながら与ることだろう。

例えば栄光誦では、司式者が Gloria in excelsis と歌い出したら Deo のところで頭を下げる。以下、Adoramus te, Gratias agigmus tibi, Jesu Christe そして Suscipe deprecationem でも同様にする。最後の Cum Sancto Spiritu で十字のしるしをすれば完璧である。

何も知らない信徒の目には奇異に映るかもしれないが、これこそはトリエント・ミサで普通に行われている、本来の与り方である。よく練習して、本番で実践してみてはいかがだろうか。

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死者のためのミサと献堂式のミサとをカップリングする謎

手元にあるソレム修道院聖歌隊のCDの中に、Défunts. Dédicace というのがある。

死者のためのミサと献堂式のミサ。互いに関係がなさそうな2つのミサを、どうして1つのCDに収めたのか、しばらく理由が分からなかった。どちらも D で始まるから、というのも考えにくい。

その謎が解けたのは、今日ミサ典書を見ていたときのことである。もうすぐやってくる祝日を調べていたら、9日に「至聖なる救世主の大聖堂献堂式」というのがあった。この祝日に固有のミサはなく、献堂式の共通ミサを祝うことになっている。

つまり、11月2日の死者の日のためにこのCDを引っ張り出したら、9日の献堂式のミサの準備にもなる、ということである。良くできている、と感心することしきり。

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死者の日に思い悩む

今日は死者の日なので、全ての死せる信者のために祈るべきところなのだが、拙い祈りを全ての死者のために捧げるとなると、まるで無限希釈のようでもあり、若干の無力感を覚える。

ならばいっそのこと「主の御憐れみを最も必要とする霊魂」のために祈るのはどうか。きっとその方が易しいだろう。

ただ、それがこの記念日の趣旨に合っているかどうかは分からないので、勝手な判断は控えたい。

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どの洗礼名がいいか迷っている求道者への提案

今度のクリスマスにカトリック教会で受洗する予定の求道者は、もうそろそろ洗礼名を考えておくよう言われているかも知れない。

しかし、まだ聖書や聖人伝の読書歴も乏しく、馴染みの聖人も少ない状態では、「好きな名前を選べばよい」などとアドバイスされても困るだけだろう。

それならば、まず最初に、自分があやかりたい聖人のイメージを描いてみてはどうか。

どのような信仰で知られているか、どのようなミッションに携わったか、どのような最期(殉教)を遂げたかなど、およその人物像でよい。

もしも可能なら、使徒、教皇、司教、司祭、修道士、修道女、平信徒、それから天使のうちの、いずれかまで絞り込んでおくことが望ましい。

このように準備した上で司祭や先輩の信徒に相談すれば、思い当たる聖人の名をいくつか挙げてもらうことができるだろう。それらは、かなり有力な候補になるはずである。

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不思議の国のアイリス (10/31 23:23) 編集・削除

最近はそういう方のために、小さな聖人伝が集まった本が出ているみたいですよね。
私はカトリックに導いてくれた教会博士にしましたが。

教皇ベネディクト16世のために日本で最もよく祈っているのは

日本における聖ピオ十世会の巡回聖堂では、ミサ聖祭の直後に数々の祈りを唱えるが、そのうちの一つに「教皇のためにする祈」がある。その他にも、教皇の意向のために主祷文・天使祝詞・栄誦を一度づつ唱えている。

これを毎月、大阪で2度、東京で2度(最近まで3度)行っているわけだから、小教区で毎主日に祈っているのにまあまあ近いと言えよう。

そうなると、教皇のために日本で最もよく祈っているのは、実は自分たちではあるまいか、と思いたくなってくる。

もちろん、そのようなことがあってはならない。「何をうぬぼれている。同じ意向でもっともっと祈っている小教区がいくつもあるぞ。例えば、・・・」、といったお叱りがあれば有り難く受けたい。

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たかが平日、されど平日

これまで典礼暦中の平日については、さほど関心を持っていなかった。主日でもなく祝日でもない日、という認識のほかは、2級3級4級がそれぞれ何を意味するのかという疑問を持つくらいで、それだって深く追究しようとしたわけではない。

しかしながら、典礼カレンダーを1年通して見てみたら、おそらくこういうことではあるまいか、というものが見えてきた。

もしも関心があるならば、カレンダーをめくってみたらよい。普段は4級である平日が、どの日を境に3級となり、また2級になるのかを確認すれば、何か手がかりがつかめるだろう。

そこから先はまだ確定的なことが言えないので、機会があったら調べておきたいと思っている。

ちなみに、先月注文しておいた来年度の典礼カレンダー(2011 Calendar: Priestly Ordinations)は、昨日届いたということをお知らせしておく。

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ノヴスオルド・ミサ批判の元ネタ

これまで幾度となくノヴスオルド・ミサ批判を書いてきたが、この辺りで元ネタの1つを披露しておこうと思う。

ただし、元ネタといっても、それを参照しながら書いていたわけではない。かなり前に読んで記憶の片隅に残っていたものを、時間の経過の中で自分なりに消化した上で日記にしたので、同じことを取り上げても独自の切り口になっているはずである。

さて、その元ネタは、ルフェーブル大司教の公開書簡「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ」の第4章永遠のミサと現代のミサである。

これは書籍の1章分の分量があるが、カトリック典礼に関心があってこれまで日記を読んでくれた読者なら、それだけの素地があるので、比較的容易に読むことができると思う。

本当はカトリックアクション同志会の人たちにも読んでもらいたいのだが、あまり期待できない。きっとルフェーブルの名前を聞いただけで読もうとしないだろうから。

カトリック典礼破壊の原因は「食事」にあり

典礼破壊と聞くと、カトリック典礼の何たるかを知らぬ司祭たちがミサ聖祭に自分勝手な創意工夫を持ち込むことを想像するのではないだろうか。

しかしながら、ある意味では、彼らは典礼をよく知っているとも言える。ノヴスオルド・ミサにおいては、犠牲の概念が後退し、代わりに食事という概念が強調されたことを、彼らはよくよく理解しているのである。

ミサが食事会であるならば、テーブルを用意し、食べ物飲み物を美味しいものにし、楽しい音楽を流し、面白い見せ物を用意し、くつろいだ姿勢を勧めるなどなど、食事会に相応しい演出をするのも当然のこととなる。

ただ、こういった演出を行き過ぎだと感じる信徒の多くも、多かれ少なかれこの典礼破壊の影響下にある。このことについては、犠牲が足りないという拙文で触れているので読んでおいて欲しい。

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ひかる (10/18 18:58) 編集・削除

こんばんは。いつも楽しく拝見させて頂いております。

私見ですが、生贄(犠牲)も、「神の食事」という意味では食事なので、要するに、人が、司祭を通して、牛や羊を捧げて、神さまに食べさせるというのが、生贄です。

ですから、どの宗教でも、生贄をやっている宗教は、通常は、神さまに捧げた後、司祭が、生贄を食べるわけです。ユダヤ教でも同じでした。ちなみに諏訪大社の江戸時代までの儀式も同じです。獣を殺して生贄にした後、神官が食べていました。

ですので、ミサは、食事というのも間違いではないですが、それは、父なる神と我々との間の食事であり、司祭はキリストで、捧げる供え物(料理)は「神の子羊」であるキリスト、そして捧げる相手は父なる神という構造です。

ですので、食事という言葉でミサを定義する場合、「父なる神と子なる神との間の食事」がミサであって、その意味で、祭壇は「神の食卓」であって、我々は、キリストと一緒に、キリスト側で、食事に参列するわけです。

そうすると、私たちはキリストと一致して神さまをもてなす側であって、キリストはこちら側におり、食卓のあちら側にいるのは父なる神だけです。

以上、正確にいうと、典礼破壊の原因は「食事」にありというより、「キリストとの食事」という発想にあるのだと思います。

管理人 (10/18 20:29) 編集・削除

>いつも楽しく拝見させて頂いております。

ならば当然、これも読んでいるはずですよね。

自分の読者じゃあるまいに
http://pius.xii.jp/diary/archives/237.html

>正確にいうと、典礼破壊の原因は「食事」にありというより、「キリストとの食事」という発想にあるのだと思います。

タイトル中の「食事」ですが、「食事という概念が強調された」ことを端的に表現したものだということを正確に理解しているのでしょうか。とても疑問です。