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救霊の観点からエキュメニズムを考えると

毎日ロザリオを唱え、主日ごとにミサに与り、たびたび悔悛の秘蹟を受けるような平均的ないし模範的なカトリック信徒は数多くいる。

このような、比較的天国に近いと思われる信徒でさえも、臨終が近づいたときには、司祭を呼んでもらい、最後の告解と終油の秘蹟によって救霊をより確実にしたいと願うことだろう。

そのような信徒なら、プロテスタントの信徒が、救霊についてかなり厳しい状況に置かれていることが理解できるはずである。彼らが持ち合わせているのは、おそらく有効であろう洗礼のみで、御聖体拝領や告解をする機会がないからである。

それでも、プロテスタントの信徒がカトリックに改宗しないのを嘆くこともなく、彼らの救霊について悲観的になることもなく、エキュメニズムだ対話だ交流だと浮かれている者が少なからずいるのが現実だ。もう少し整合性というものを考えたらどうだろうかと思う。

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あのグレゴリオ聖歌をもう一度歌ってはどうか

昨日は聖母被昇天の祝日ということで、この日ばかりは一部のカトリック教会で、普段歌わないグレゴリオ聖歌を歌ったのではないかと思われる。

それがミサ通常文を Cum jubilo で歌ったということであれば、来る聖マリアの汚れなき御心の祝日にも歌ったらよいだろう。もしもそのような予定がないなら、すぐにでも聖歌隊の指揮者に話を持ちかけるべきである。

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典礼破壊を批判するビデオの紹介

昨年ほんの軽く紹介したビデオ What We Have Lost の動画が、現在 Google ビデオで視聴できることが判った(What We Have Lost... and the Road to Restoration)。

当時もインターネット上にはあったが、YouTube ではぶつ切りだったり、また別のところではファイルサイズが大きすぎたりしたために不便があった。今回紹介するのは、その点では程良いのではないかと思う。

それでもオリジナルの DVD をご所望ならば、注文は In the Spirit of Chartres Committee まで。

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召命は「われらのうちより」2

前回、召命は「われらのうちより」出るものという気構えを持って、共同体のあり方に注意するようにと書いた。

それは召命一般についての話であったが、特に司祭の召命について言えば、「侍者のうちより」出るものだという認識が必要である。

考えてみれば当然のことで、侍者の務めに熱心でない者、まして経験のない者が、一生涯ミサ聖祭を捧げる司祭を志すということは考えにくい。司祭の召命は、侍者として司祭の一挙手一投足を見つめていた者のうちから生じるのが普通だ。

したがって、少年や若い男性信徒が侍者の練習も始めず、いつまでも会衆としてミサに与っているような状況があるならば、責任者に改善を促す必要があるだろう。もちろん、相応しい男性がいるのにもかかわらず女性に侍者をやらせているようなのは論外である。

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彦左衛門 Eメール (07/28 20:42) 編集・削除

仰るとおり、全面的にご意見に賛成。

召命は「われらのうちより」

若いうちは、本気とも冗談ともつかない調子で「司祭になったら」と言われたものである。実年齢よりも若く見える日本人の特権で、それは比較的最近まで続いたのだが、さすがに今となっては限界点を越えたようである。

では、もう召命は他人事なのか、と言えば、断じてそうではないと思う。ただし、思い出のカード上には上があるで触れたような、熟年召命の話ではない。

たとえ歳を取っても結婚しても、「願わくはわれらのうちより、司祭または修道者となりて働く多くの人々を選びて、主の公教会に遣わし給わんことを」(御召を求むる祈)と祈るからには、自らの所属する共同体を召命の温床とすべく、何らかの注意を払うべきである。

具体的には、若い信徒たちがラテン語やグレゴリオ聖歌や聖務日課や公教要理に馴染んでいるかどうか、特に男子なら侍者の務めや練習に励んでいるかどうか、よくよく関心を持っておく必要があるだろう。

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ワールド・ユース・デイには危険が潜んでいる

来年、スペインのマドリードでワールド・ユース・デイが開催されるが、そのプロモーションビデオを YouTube で見つけてしまった。だが、そのリンクをここで紹介しようとは思わない。

というのも、このイベントについては、もともとあまりいい話は聞いていないからである。参加してカトリック信仰を深めるどころか、若い男女が罪を犯して帰ってくるという噂も(真偽はともかく)あったほどだ。

噂よりも証拠・証言があれば確かなことが判るが、このワールド・ユース・デイがカナダのトロントで行われたときの様子を映像で伝えるDVDがある。

これは Catholic Family News のジョン・ヴェナリ氏が取材に行き、撮影したビデオを編集したものだが、その抜粋(Excepts: World Youth Day: Catholicism or Corruption?)だけでもその酷さが伝わってくる。

この動画を見て呆れてしまった人も、以前書いた伝統派カトリック学校の記事(長崎の信徒発見と聖ピオ十世会2)を読んで、いくらか希望を見つけてくれたら、と思う。

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司祭はいつどこでどのように「転向」するのか

ふと思うのだが、いったい司祭は、何をきっかけにして、天使祝詞の口語訳に問題を感じたり、グレゴリオ聖歌を歌うようになったり、跪きの意義を見出したり、煉獄や地獄について説教しなければと思うようになったりするようになるのだろうか。

例えば、信徒が司祭のもとに行って、教皇の回勅なりトマス・アクィナスなりカテキズムなりの一節を指差して、これこれが正しいのではないかと問いただしたらどうだろうか。その司祭は上手く返答することができないかも知れないが、きっと全面的な同意もしないだろう。

おそらく、司祭が自発的に何かを変えようとすることはまずない。従って、何か強制的な力が働かなくてはならない。

可能性があるとしたら、将来、聖ピオ十世会のミサに多くの信徒が流れて地元司教の脅威となり、同じ日にトリエント・ミサをぶつけて信徒を奪回すべく、司祭を指名してその捧げ方を学ばせるときぐらいだ。その司祭に限っては、伝統的ミサと調和する信仰を期待できるようになるだろう。

イエジ・ポピエウシュコ神父の列福を祝したかったが

1984年に共産主義下のポーランドで秘密警察によって暗殺されたイエジ・ポピエウシュコ神父の列福式が、今日ワルシャワで行われるというニュースが最近入っていた。

だが、列福式が行われたというニュースはまだ入っていない。時差と言語のギャップを考慮に入れても、日本時間の24時までには何か一報が入るのではないかと思っていたので、少し残念である。

司祭の手と御聖体とについて

御聖体の祝日そのものは既に終わっているものの、今日祝ったところも多々あったはずなのでまだ話題にして良かろうと思う。といっても、御聖体というよりも、御聖体に触れる司祭の手の方が今回の話の中心である。

叙階式に参列して注意深く観察したり、ビデオでその様子を見たりしたことがあるならば知っているであろうが、司教は叙階を受ける者の手に聖香油を塗る。これは、聖ピオ十世会のエコン神学校で行われた叙階式を撮影した動画 Priests for Tomorrow - Part 6 の4分目くらいから確認できる。

叙階式が終わると信徒は新しい司祭からそれぞれ祝福を受ける。ところによっては司祭の両手にキスをすることもある。これはエコン神学校でも行われていて、Priests for Tomorrow - Part 7 の4分目前後でその様子を観ることができる。

この他にも、侍者が司祭とものの受け渡しをするとき、正式には司祭の手にキスをすることになっているなど、特別な扱いである。また、聖フランシスコ・ザビエルの遺体はあちこち切り刻まれて聖遺物となっているが、中でもその右腕には特別な思いが寄せられている。

このように司祭の手というのは特別なものであるが、それでもトリエント典礼ではミサ中に指を洗浄するし、聖変化の後は親指と人差し指が御聖体以外の何物にも触れないように注意しているのである。

しかるにノヴスオルド・ミサでは、略式と呼ぶのもはばかられるほどに司祭の所作が簡略化されている。また、手で受ける御聖体拝領や聖体奉仕者の導入によって、一般信徒が御聖体に手で触れるのは普通のことになっている。恐ろしいことだ。

本来の司祭職に立ち戻れとは言うものの

気が付けばもう司祭年も終わりに近づいている。昨今の司祭の有り様に心を痛め、この機会に本来の司祭職に立ち戻ってほしいと期待する信徒もいたことだろう。

しかし、本来の司祭職に立ち戻るためには、その何たるかを神学校で叩き込まれたという事実がなくてはならぬ。果たしてこの事実は確認できているのだろうか。

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彦左衛門 Eメール (10/09 19:34) 編集・削除

  >しかし、本来の司祭職に立ち戻るためには、その何たるかを神学校で叩き込まれたという事実がなくてはならぬ。果たしてこの事実は確認できているのだろうか。

  彦左衛門曰く:

  現在の、東京神学校は、社会運動の基地のようになっていると、そこで学んだ神学生の親父さんから聞いたことがある。