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教皇ベネディクト16世のために日本で最もよく祈っているのは

日本における聖ピオ十世会の巡回聖堂では、ミサ聖祭の直後に数々の祈りを唱えるが、そのうちの一つに「教皇のためにする祈」がある。その他にも、教皇の意向のために主祷文・天使祝詞・栄誦を一度づつ唱えている。

これを毎月、大阪で2度、東京で2度(最近まで3度)行っているわけだから、小教区で毎主日に祈っているのにまあまあ近いと言えよう。

そうなると、教皇のために日本で最もよく祈っているのは、実は自分たちではあるまいか、と思いたくなってくる。

もちろん、そのようなことがあってはならない。「何をうぬぼれている。同じ意向でもっともっと祈っている小教区がいくつもあるぞ。例えば、・・・」、といったお叱りがあれば有り難く受けたい。

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紙詰まりエラーで動かないプリンターを捨てる前に試したいこと

昨夜、文書をプリンターで印刷しているときに、紙詰まりを起こしたというメッセージが画面上に出た。

そこで、詰まった紙を取り除こうとしたのだが、少なくとも目に見える範囲内では、紙など詰まっていない。破れた紙の一部が残っていることも考えにくい。しかし、リセットボタンを押しても紙詰まりエラーは解除されない。

ネットで調べると、電源コードを抜いてしばらく(一説には20分くらい)放置すればエラー情報がリセットされるというので試してみた。確かにエラーは解除され、用紙1枚をスムーズに送り出したが、どういう訳かありもしない紙詰まりをまたもや検知してしまう。

さらにネットで調べたところ、紙詰まりセンサーが故障しているか、ゴミの付着で誤作動しているかのどちらかである、というところまで突き止めた。

もしも原因が前者ならばどうやってもお手上げである。しかし後者ならば、紙の通り道をブロアーか何かで吹いてやれば解決するかもしれない。

あいにくブロアーが手元になかったので、強い息を何度か吹きかけてみた(決してその姿を想像しないように)。十分とは思えなかったが、これしかできないので仕方がない。

そして、再びコードをつないで電源を入れてみると、ありもしない紙詰まりを検知することもなく、普通の状態に戻った。今は何事もなかったかのように動いている。

今回はたまたま運がよかっただけだが、こんな報告でも何か参考になれば幸いである。

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たかが平日、されど平日

これまで典礼暦中の平日については、さほど関心を持っていなかった。主日でもなく祝日でもない日、という認識のほかは、2級3級4級がそれぞれ何を意味するのかという疑問を持つくらいで、それだって深く追究しようとしたわけではない。

しかしながら、典礼カレンダーを1年通して見てみたら、おそらくこういうことではあるまいか、というものが見えてきた。

もしも関心があるならば、カレンダーをめくってみたらよい。普段は4級である平日が、どの日を境に3級となり、また2級になるのかを確認すれば、何か手がかりがつかめるだろう。

そこから先はまだ確定的なことが言えないので、機会があったら調べておきたいと思っている。

ちなみに、先月注文しておいた来年度の典礼カレンダー(2011 Calendar: Priestly Ordinations)は、昨日届いたということをお知らせしておく。

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ノヴスオルド・ミサ批判の元ネタ

これまで幾度となくノヴスオルド・ミサ批判を書いてきたが、この辺りで元ネタの1つを披露しておこうと思う。

ただし、元ネタといっても、それを参照しながら書いていたわけではない。かなり前に読んで記憶の片隅に残っていたものを、時間の経過の中で自分なりに消化した上で日記にしたので、同じことを取り上げても独自の切り口になっているはずである。

さて、その元ネタは、ルフェーブル大司教の公開書簡「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ」の第4章永遠のミサと現代のミサである。

これは書籍の1章分の分量があるが、カトリック典礼に関心があってこれまで日記を読んでくれた読者なら、それだけの素地があるので、比較的容易に読むことができると思う。

本当はカトリックアクション同志会の人たちにも読んでもらいたいのだが、あまり期待できない。きっとルフェーブルの名前を聞いただけで読もうとしないだろうから。

とうとう殺してしまった

最近一連の迷惑メールが届き始めた。大金持ちの女性からのメッセージを預かって、登録者(そんな覚えはないが)に対して逐一送っているということである。

複数のオファーがあるのだが、そのうちの一つに、死を目前に控えた老女が財産を譲りたがっているので口座を教えよ、というのがあった。

その「老女」の余命は医師の宣告によれば5日間ということであった。その健康状態はメールが届くたびに悪くなっていった。とても順調に。

とはいえ、もう少し粘って引き延ばすのではないかと予想していたのだが、今日の午後になって息を引き取ったとのことである。何ともあっさりしたシナリオだ。

さすがにこれでこのネタは終わりだろうと思っていたところ、今度はその「老女」の弁護士を名乗る者からのメッセージが来た。返事をする締め切りが今日中となっているが、明日以降の展開やいかに。

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カトリック典礼破壊の原因は「食事」にあり

典礼破壊と聞くと、カトリック典礼の何たるかを知らぬ司祭たちがミサ聖祭に自分勝手な創意工夫を持ち込むことを想像するのではないだろうか。

しかしながら、ある意味では、彼らは典礼をよく知っているとも言える。ノヴスオルド・ミサにおいては、犠牲の概念が後退し、代わりに食事という概念が強調されたことを、彼らはよくよく理解しているのである。

ミサが食事会であるならば、テーブルを用意し、食べ物飲み物を美味しいものにし、楽しい音楽を流し、面白い見せ物を用意し、くつろいだ姿勢を勧めるなどなど、食事会に相応しい演出をするのも当然のこととなる。

ただ、こういった演出を行き過ぎだと感じる信徒の多くも、多かれ少なかれこの典礼破壊の影響下にある。このことについては、犠牲が足りないという拙文で触れているので読んでおいて欲しい。

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コメント一覧

ひかる (10/18 18:58) 編集・削除

こんばんは。いつも楽しく拝見させて頂いております。

私見ですが、生贄(犠牲)も、「神の食事」という意味では食事なので、要するに、人が、司祭を通して、牛や羊を捧げて、神さまに食べさせるというのが、生贄です。

ですから、どの宗教でも、生贄をやっている宗教は、通常は、神さまに捧げた後、司祭が、生贄を食べるわけです。ユダヤ教でも同じでした。ちなみに諏訪大社の江戸時代までの儀式も同じです。獣を殺して生贄にした後、神官が食べていました。

ですので、ミサは、食事というのも間違いではないですが、それは、父なる神と我々との間の食事であり、司祭はキリストで、捧げる供え物(料理)は「神の子羊」であるキリスト、そして捧げる相手は父なる神という構造です。

ですので、食事という言葉でミサを定義する場合、「父なる神と子なる神との間の食事」がミサであって、その意味で、祭壇は「神の食卓」であって、我々は、キリストと一緒に、キリスト側で、食事に参列するわけです。

そうすると、私たちはキリストと一致して神さまをもてなす側であって、キリストはこちら側におり、食卓のあちら側にいるのは父なる神だけです。

以上、正確にいうと、典礼破壊の原因は「食事」にありというより、「キリストとの食事」という発想にあるのだと思います。

管理人 (10/18 20:29) 編集・削除

>いつも楽しく拝見させて頂いております。

ならば当然、これも読んでいるはずですよね。

自分の読者じゃあるまいに
http://pius.xii.jp/diary/archives/237.html

>正確にいうと、典礼破壊の原因は「食事」にありというより、「キリストとの食事」という発想にあるのだと思います。

タイトル中の「食事」ですが、「食事という概念が強調された」ことを端的に表現したものだということを正確に理解しているのでしょうか。とても疑問です。

ロザリオの月とはいえど

10月はロザリオの月とはいえ、特別にペースが上がるということもなく一週間が過ぎようとしている。

その中で多少の慰めとなっているのは、「聖会の保護者なる聖ヨゼフに向う祈」を欠かさず唱えることができていることである。

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大天使聖ミカエルの祝日に思う2

ちょうど2年前に大天使聖ミカエルの祝日に思うという記事で触れた聖ミカエルへの祈りだが、「聖会のための祈」全体をミサの後に唱えている動画(Dominican Rite Low Mass (Commentary) - J3 Concluding prayers at foot of altar)が見つかった。祈りであるからテキストさえあれば十分なのだが、参考までに観ておいてほしい。

さて、この祈りについて、有名なエクソシストであるガブリエル・アモース神父は、著書『エクソシストは語る』の中でこう述べている。

替わりとなる適切な祈りもなしに、ミサが終わったあとに唱えるのを習慣としていた大天使聖ミカエルへの祈りを削除してしまったのは間違いであったとわたしは信じています。

本当に、典礼改革とやらのせいで、この40年間というもの、どれだけの祈りが唱えられることなく失われたのだろうか。

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問題だらけだった英訳ミサ典書の修正個所を見て

アイルランドに滞在していた頃、英語ミサに慣れるためにポケットサイズのミサレットを携帯していた。

ミサに与るたびに、「あらかじめ祈りを暗記しておけばよかった」と後悔するものの、ミサが終わるとそんなことは忘れてしまっていた。結局、滞在の最後まで同じことを繰り返していたものだ。

そのような有様ではあったが、式次第の英語を見たときには、この訳し方は少し大胆ではないか、という印象は受けていた。この訳が大胆と言うよりも不適切だということが判ったのは、ずっと後のことである。

今回、英訳ミサ典書の改訂版が出されるのに併せて作られた信徒用訂正表を見ながら、懐かしく思ったり、やはり以前のはおかしいと確信したり、これを覚え直すのは大変だろうと勝手な心配をしたりしている。

大斎の日の神学校での食事風景

1962年のミサ典書による典礼暦によれば、今週の水曜・金曜・土曜は四季の斎日である。聖ピオ十世会では、修道会の方針として四季の斎日には大斎を守ることにしている。

これは一般信徒にも勧められているものの、義務ではない。それでも、聖ピオ十世会の司祭らと共に行動しているときは、お付き合いすることになってしまうのだが。

さて、かつて聖十字架神学校にゲストとして滞在したときにも大斎があった。朝ミサの後、神学生たちは食堂の自分の席でそれぞれ祈りを唱え、立ったまま無言で朝食を取る。紅茶だけであったり、食べても食パン1枚くらい。食べ終えるとまた祈り、使った食器を持って一人また一人と去っていった。その雰囲気は前日までとはまるで異なっており、今でも強烈に印象に残っている。

この他にも伝統的神学校生活の一端を垣間見たいなら、Holy Cross Seminary にアクセスするとよい。他にも St. Thomas Aquinas Seminary がある。

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