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教会ラテン語の予習 [9] 聖霊降臨後第10主日

今度の主日に行われる聖霊降臨後第10主日のミサから。朗読箇所は、コリント人への第一の手紙(12:2-11)と、ルカによる福音書(18:9-14)。

今回のラテン語本文を読む限り、特に興味深い文法事項が頻出するというわけでもないようなので、聖福音の朗読箇所から、自分がよく覚えている語句が使われてるフレーズをいくつか拾っていこうと思う。

 (1) Deus, Gratias ago tibi, ...
 (2) ad caelum

(1)は Gloria の gratias agimus tibi とそっくりである。なぜこの表現だけ ~ te の形を取らないのかと前から思っていた。辞書で調べてみたら、熟語として gratias agere というエントリーを見つけることができた。どうやらこれが「感謝する」の普通の表現らしい。ついでに gratias も調べてみたら、複数形であることが判った(今更だけれども)。要は英語の I/we give thee thanks にぴったり対応するのである。

(2)の caelum はなまじ意味が分かるだけに、変化形に気を付けてこなかった単語である。英文法に慣れ親しんだ頭では、与格と対格と奪格はどれも「目的語」であり、「目的語」であることが判りさえすれば、細かい語尾変化はあまり注目しない悪い癖がある。しかし、和文羅訳ではそれを意識せざるを得ないから、少しずつでもやってみたらいいのかも知れない。

予習箇所を間違える

昨日の「教会ラテン語の予習」で、予習すべき箇所を間違えてしまった。機械的に次の主日を選んでしまい、祝日に気が付かなかったのである。それでも、自分の勉強にはなったので損をしたとは考えていない。それから、すでに終わったミサについて、後から「予習」するのは遠慮したい。

教会ラテン語の予習 [8] 聖霊降臨後第9主日

今度の主日に行われる聖霊降臨後第9主日のミサから。朗読箇所は、コリント人への第一の手紙(10:6-13)と、ルカによる福音書(19:41-47)。

今回は書簡の方で、「彼らのうちの何人かが~したように、~するな」というパターンが繰り返される。動詞はどれも同じ活用かと思いきや、なかなか一筋縄では行かない。

 (1) Non ... , sicut et illi concupierunt.
 (2) Neque ... , sicut quidam ex ipsis fornicati sunt, ...
 (3) Neque ... , sicut quidam eorum tentaverunt, ...
 (4) Neque ... , sicut quidam eorum murmuraverunt ...

どれも三人称複数過去である。(2)だけ受動態だが、この際に覚えておきたい。バルバロ訳によればそれぞれの意味は、(1)貪った、(2)淫行した、(3)試みた、(4)不平を言った、である。

ちなみに、前半部の動詞はどれも接続法であり、まだ手に負えないのでカットした。それでも、語幹から意味だけ取ることなら可能だろう。それから、これらの悪い行いの結果として起きたことも、活用語尾から三人称複数の過去ということが分かるだろう。

教会ラテン語の予習 [7] 聖霊降臨後第8主日

今度の主日に行われる聖霊降臨後第8主日のミサから。朗読箇所は、ローマ人への手紙(8:12-17)と、ルカによる福音書(16:1-9)。

ラテン語では、動詞の語尾が -mus となっているのをよく見かける。活用表を見る限り、時制はともかく1人称複数であると思って差し支えなさそうだ。特に、Gloria の前半部のフレーズは印象的だ。主語の明示はなくとも、「我ら」の行為であることは意識して歌いたい。
 Laudamus te. Benedicimus te. Adoramus te. Glorificamus te. Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam.

さて、今回は書簡の方から、-mus で終わる動詞を拾ってみた。数が少ない上に1語重複しているが、確実に聞き取って理解するためには、これくらいで丁度いいと思う。
 (1) Debitores sumus non carni,
 (2) ut secundum carnem vivamus.
 (3) quod sumus filii Dei.

最後に、基本的に下線部以外の部分には立ち入らないようにしているのだが、(3)の filii Dei は見逃せない。主語が1人称複数なので意味上当然なのだが、filii は複数形であり、馴染みの「神の子」ではないことに注意したい。

初聖体のためのカテキスタを引き受ける

また安請け合いをしてしまった。同じ共同体の信徒が子供たちに初聖体を受けさせたいということで、司祭に相談をしていたところ、要理教育を誰が担当するかということになり、そして私に白羽の矢が立ったのだ。そこで、よせばいいのに引き受けたのである。ちなみに、日本語ではなく英語で教えることになる。

その任に相応しいからというわけでもなく、他に人がいなくて仕方なくというわけでもなく、ただ頼めるから、という理由で依頼が来るこの状態が、いいのか悪いのか少し判断に苦しむ。しかし、こういう役目も務まらなくてはいけないと思うので、挑戦してみようと思う。

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教会ラテン語の予習 [6] 聖霊降臨後第7主日

今度の主日に行われる聖霊降臨後第6主日のミサから。朗読箇所は、ローマ人への手紙(6:19-23)と、マテオによる福音書(7:15-21)。

今回は趣向を変えて、福音書朗読の中から、日本語でもよく知られているフレーズを拾って、聞き取りに挑戦してみたい。少し長いのだが、個々の単語は比較的馴染みがあるはずだ。

 (1) Non omnis, qui dicit mihi, Domine, Domine, intrabit in regnum caelorum:
 (2) sed qui facit voluntatem Patris mei, qui in caelis est, ipse intrabit in regnum caelorum.

逐語訳をすれば、(1)「みなが~ではない、私に言う人が、主よ主よと、天の国に入るだろう」(2)「しかし、私の父の御旨を行う者が、天におられる、その人が天の国に入るだろう」といったところだろう。

余裕がないので文法的なことには立ち入らないが、文字で見るのと耳にするのとでは大きく違うから、よく音読して慣れておきたい。

正平協は看板に偽りあり

カトリック正義と平和協議会が、北朝鮮のミサイル発射に沈黙している。日本の平和を脅かすあの暴挙から、もう2週間になろうとしているのに、未だに何の声明も出していない。

これが正平協の仕事のペースなら仕方がないが、決してそうではない。声明の書き手についていえば、少なくとも会長と事務局長とがいる。さらに、香田証生さんが殺害された数日後には自衛隊撤退を求める声明を出したという実績がある。だから、遅れているということはありえない。

確かに、正義と平和に反するからといって、ありとあらゆる事象に声明を出して噛みつくという訳にはいかない。守備範囲も得手不得手も、時間と労力の制約もあるだろう。しかし、北朝鮮のミサイルは、戦争の道具であり、日本人の生命に対する具体的な脅威でもあるのだから、何ごとにも優先するはずだ。「正義と平和」を標榜する団体ならば、何らかの抗議をしてしかるべきだ。さもなくば、偽りの看板を降ろすべきである。

related page(s) カトリック教会

犠牲が足りない

カトリック教会のミサのことを調べようとして、インターネットの検索エンジンで「ミサとは」と打ち込み、検索ボタンをクリックすると、そこそこの検索結果数を得ることができる。

その中でよく見かける説明は、「カトリック教会で行う一番大事な祈りです」といったようなものである。何か元ネタがあるらしく、これと大同小異なものも散見される。また、最後の晩餐を再現するものだという説明も、少なからずある。しかし、残念なことに、どれもこれもカトリック的には十分な説明ではない。

従来カトリック教会は、ミサをイエズス・キリストの犠牲と結びつけて教えてきた。トリエント公会議のカテキズムでは、「ミサ聖祭は真の犠牲である(The Mass Is a True Sacrifice.)」とまで言っている。子供向けのカトリック要理にすら、「ミサはイエズス・キリストさまのおんからだとおん血を神さまにささげる祭りであります。」とある。

従って、もしもある要理テキストが、「犠牲」「いけにえ」「捧げる」といった言葉を使わずにミサを説明しているとしたら、例えカトリックの出版社から出されたものであっても、カトリック信仰を教えているとは言えない。また、現行のミサも、犠牲の概念を大きく後退させており、普通に与っているだけでは、本来のカトリック的な理解に至ることができないのである。

教会ラテン語の予習 [5] 聖霊降臨後第6主日

今度の主日に行われる聖霊降臨後第6主日のミサから。朗読箇所は、ローマ人への手紙(6:3-11)と、マルコによる福音書(8:1-9)。

福音書朗読では、dixit を始めとして、-it という語尾の単語がいくつか出てくる。この多くはイエズスのしたこと(三人称単数過去の動詞)と思っていいのではないか。また、-erunt という語尾を持つ語は、弟子たちまたは群衆のしたこと(三人称複数過去の動詞)と思ってもいいのではないか、と考えてみた。

 (1) Et interrogavit eos: ...
 (2) quidam enim ex eis de longe venerunt.
 (3) Et responderunt ei discipuli sui: ...
 (4) Et interrogavit eos: ...
 (5) Qui dixerunt Septem.
 (6) Et praecepit turbae discumbere super terram.
 (7) fregit, ...
 (8) et dabat discipulis suis, ...
 (9) et apposuerunt turbae.
 (10) et ipsos benedixit, ...
 (11) et jussit apponi, ...
 (12) Et manducaverunt, et saturati sunt, ...
 (13) et sustulerunt quod superaverat de fragmentis, ...
 (14) et dimisit eos.

今回の本文では、この仮説がよく当てはまるようだ。訳語は英訳から類推したもので、必ずしも辞書で確認できたわけではないが、イエズスがしたことは以下の通りである。(1)「尋ねた」(4)「尋ねた」(6)「命じた」(7)「割いた」(8)「渡した」(10)「祝福した」(11)「命じた」(14)「去らせた」。

弟子たち、または群衆がしたことは以下の通りとなる。(2)「来た」(3)「答えた」(5)「言った」(9)「置いた」(12)「食べた」(13)「集めた」

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「ユダの福音書」の真実性はいかに

新聞で「ユダの福音書」を宣伝する広告を見かけた。既存の聖書とは違うことが書いてある文書が見つかったというだけなのだが、どういうわけか、こちらの方こそ真実に違いないと思ってしまう人々がいる。現に「ダ・ヴィンチ・コード」のときもそうであった。

あるブログでは、ナグ・ハマディ文書を擁護した人もいた。それで、私はこういう質問をした。「それはいつ誰が書いたものですか?それを書いた人物は、使徒やマグダラのマリアとどのような関係にあったのですか?また、その人が書いたということを、誰か証言していますか?」あれから2カ月近く経ったが、まだ回答はない。

ちなみに、新約聖書の四福音書は、十二使徒またはその直弟子が書いたと言い伝えられるだけでなく、その真実性を証言する人がいたことも確認されている。上の質問の「使徒やマグダラのマリア」をイスカリオテのユダと置き換えれば、「ユダの福音書」に対する疑問としても通用するはずであるが、果たして信じるに足るだけの回答は得られるのだろうか。

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