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聖書は改竄されたか

「ダ・ヴィンチ・コード」が流行する背景には、広く浸透したある思い込みがある。すなわち、教会は自らの都合の良いように聖書を改竄したはずだ、というものである。確かに、教会の歴史は長いし、組織は守らねばならないから、そのようなことがいつかどこかで行われたとしても不思議はない気がする。

しかし、普通に聖書を読む者として感じるのは、福音書が都合良く改竄されているとは考えにくい、ということである。なぜなら、福音書は、将来の教会を背負って立つ弟子たちにとって不名誉でしかないエピソードが、数多く載せられたままだからである。後に教会の頭となるペトロは、イエズスから何度も叱責を受け、鶏が鳴く前に3度主を否んだことも、現代の人々に知られてしまっている。もしも改竄が行われていたのだとしたら、あまりにも不徹底ではなろうか。

また、もしも聖書を書き換えたとして、それを一体どのようにして標準化させることができたのだろうか。写本の時代に、古い聖書に取って代わるべき新しい聖書を、各地の教会に必要な分だけ用意できるものなのだろうか。仮に用意できたとして、すべての教会が古い写本を廃棄し、新しい写本を受け入れるということがあり得るだろうか。むしろ、抵抗する勢力が無視できないほど現れるはずである。こう考えてみると、書き換え説はかなり無理があるように思える。

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「ダ・ヴィンチ・コード」を鵜呑みにするのは

映画「ダ・ヴィンチ・コード」が公開目前であるが、特に関心はない。原作を読んだことはおろか、立ち読みのために手に取ったことすらない。ただ、断片的に伝えられるだけでも多くの誤りが指摘されているようなので、観に行くだけの価値はなさそうだ。

誤解を避けるために一言言っておくと、カトリック信徒は、そういう新説を単に認めたくないから拒否しているのではない。教会の教えと比較して、いや比較にもならないほどお粗末だからこそ、見向きもしないのである。もちろん、そのような信徒ばかりとは限らないから、注意を促す必要は大いにある。

それよりも、カトリックのような歴史ある教団に対抗して、自分たちこそ本当の教えを知っていると称する団体は、エホバの証人や統一協会など、たいていカルト扱いされていることを思い出してほしい。

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あゝわが主、わが天主よ

旧典礼における今日の福音朗読は聖ヨハネによる福音書の第20章、主の復活を疑う使徒トマにイエズスが現れる場面である。ここでトマが「あゝわが主、わが天主よ」という信仰告白を口にする。

古い祈祷書によれば、司祭が奉挙する御聖体を仰ぎながらこれを心の中で唱えると、七年の贖宥が得られるとのことである。今度ミサに与るときにでも実践してみてほしい。ことによると、聖体の秘跡に於ける主の現存は、これを力説するよりも、このアドバイスの方がもっと容易に信じさせることができるかも知れない。

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聖木曜日にも発表か

あくまで噂の域を出ないが、聖週間のうちに、ベネディクト16世教皇が聖ピオ5世のミサ典書の使用をどの司祭にも認めると言われている。ことによると聖木曜日ではないかという情報もある。しかし、パウロ6世が現行のミサ典書を公布したのが1969年の聖木曜日なので、いくら何でもそれは出来過ぎというものだろう。

期待はするが楽観はできない

今日はベネディクト16世教皇が、キュリアの枢機卿たちと、トリエント・ミサの「解放」について話し合うことになっている。これは聖ピオ十世会との話し合いにも関わるが、教皇自身もともと関心を持っていたことだけに注目される。

「解放」とは言っても、もともと禁止されたという訳ではない。だが、そう思いこんでいる人は少なくない。さらに、司教の許可制になっているところが話をややこしくしている。廃止されたというのも間違いだ。

トリエント・ミサは今も有効であり、どの司祭も捧げることができるはずだ。そのことを確認し明言するのは、理屈から言えば難しいことではない。しかし、これまでなかなか公には認めてこなかったし、反対する勢力も存在する。それだけに、今日のうちにこの話が進展するかどうかは、何とも言い難い。

「心のともしび」がテレビ放送から撤退

「心のともしび」のテレビ放送が、この土日の放送をもって終了した。すでに関東では地上波放送はなく、地方局と衛生放送とで細々と続いていたが、とうとう今月で打ち切りとなった。

「暗いと不平を言うよりも・・・」のフレーズで始まるオープニングは覚えているが、どんな放送内容だったかは全く記憶にない。きっと、子どもには退屈な番組だったので、チャンネルを変えてしまったのだろう。番組の内容が理解できる年になってからはほとんど観た記憶がなく、カトリックに入信してからは皆無だと思う。

そのようなわけで、慣れ親しんだわけでもないこの番組が終了するのを惜しむ気持は、正直なところあまりない。ただ、これに懲りず、将来またカトリックの番組を、できることならチャンネルを持とうという気概は持ち続けてほしいものである。

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エクソシストは語る

ヴァティカンで働いているエクソシスト、ガブリエレ・アモルト神父 Fr Gabriele Amorth (アモスという表記も多々見かけるが英語読みと思われる)のインタビュー記事を読んだ。

日々悪魔と対峙しているエクソシストにとって、悪魔祓いの効果的なやり方が関心の対象となるのは当然のことだ。しかし、アモルト神父によると、その仕事を進めるに当たって、様々な問題がカトリック教会の中に存在するようだ。

まず、悪魔祓いの儀式書が改定、というよりむしろ書き替えられたこと。その際、専門家も参加せず、エクソシストたちの意見も訊かれなかったこと。何世紀にも渡って使われてきた効果ある祈りが削除されたこと。悪魔の存在を信じない司教が多数いること。エクソシストが任命されていない国があること(日本にもいないはず)、などなど。古い儀式書の使用がかろうじて認められているので、何とか悪魔祓いはできるものの、彼らを取り巻く環境はこの重要な仕事を支えているとは到底言い難い。

ちなみに、アモルト神父は『ハリー・ポッター』を非難したことでも知られている。教会による同作品への非難はえてして大衆文化への無理解と捉えられがちだが、エクソシストの言葉はさすがに重みがある。

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急成長する神学校

昨年度末に訪れたオーストラリアの聖十字架神学院 Holy Cross Seminary のウェブサイトを覗いてみたら、附属小神学校の生徒たちの集合写真が紹介されていた。今学期新たに13人加わって、総勢26人になったとのこと。寄宿舎はやはり満杯らしい。中には途中で進路を変える者もいるだろうが、ここから毎年数名の生徒が神学院の課程に進むことを期待できる。しかも、神学院だけでも次から次へと生徒が押し寄せていることが、過去の記事からも判る。将来が楽しみだ。

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カトリック司祭職の概念はどうなっているのか

先日行われた東京教区の司祭叙階式説教を読んでみた。日本の司教がカトリックの司祭職というものをどのように考えているか、窺い知ることができるのではないかと思ってのことだ。

読んでみると、私にとって都合のいいことに、大司教の考えは端的に表現されていた。「司祭は弱い人、貧しい人へ奉仕するために司祭の権能を受けます」とのことであった。同様のことは、司祭養成の段階でも教えられていることだろう。

弱い人、貧しい人への奉仕は結構だ。しかし、それは修道士でも修道女でも一般信徒でもできる。こんなことは司祭の主要な使命であるはずがない。そもそもこの叙階式で与えられた司祭の権能というのは、救霊に必要な秘跡を執行するためのものではないか。

司祭が減り、召命も減っている今、今回の叙階は信徒にとって喜ばしい話である。なぜなら、それは、これからも小教区が維持され、ミサが行われ、秘跡が受けられるということだからだ。だが、人々への奉仕者というアイデンティティーを持った司祭たちが、この期待に応えることができるのか。それはとても疑わしい。

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ゼノ修道士の研究

読まなければいけない本は他にもあるものの、再読の愉しみも捨てがたい。と言うわけで、『ゼノ死ぬひまない―「アリの町の神父」人生遍歴』を引っ張り出して読んでいた。ゼノ修道士の伝記は大抵戦後の活躍に重きが置かれているが、私はどちらかと言えば、彼がコルベ神父とともに過ごした時期に興味がある。ただ、もっと知るためには、コルベ神父の伝記も読まなければならないようだ。その伝記もまた、アウシュヴィッツの話に重点が置かれていたりするけれども。