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聖歌隊の想い出

聖歌隊の想い出

アイルランドに滞在していた頃通っていた教会では、早朝を除けば午前中に2つのミサがあった。先のミサは子供の、後のミサは大人の聖歌隊を伴うものであった。私は後者の聖歌隊に加わろうかと考えてみたりもしたが、きっかけもなく、結局入らずじまいであった。

そうこうしているうちに復活祭のミサを迎えた。いつもと違いラテン語聖歌も入って、派手なミサになった。会衆は盛り上がり、終祭の「巡礼の合唱」が終わったときは、盛大な拍手をしていた。

そのとき、相当な違和感を覚えた。この拍手は聖歌隊に向けられたものであって、主に向けられたものではないのが明白だった。それで、その拍手には加わらずに、しらけた気分で聖堂の外に出たのを覚えている。

それ以来、ミサはコンサートではない、と思うようになった。指揮者にも歌い手にも悪気はないのだろうが、やはり基本は神への奉仕なのだ。もしもあのとき聖歌隊に入っていたら、そのようなことには気が付かなかっただろうと思う。

セミナリヨについて学ぶ

今日は午後から東京純心女子大学の文化講演会に参加した。講師は長崎純心大学長のシスター片岡、タイトルは「長崎のキリシタン文化 Part III」、テーマはセミナリヨの教育活動についてであった。セミナリヨのことはかねてから詳しく知りたいと思っていたので、はるばる八王子まで出かけることにしたのだ。

講演でシスターは、セミナリヨのカリキュラムや時間割、教育の理念や方法について語った。全てが興味深い内容で、今でもそのような学校があってもいいのではないかと思ったくらいだ。もっとも、一条校としては認められないかもしれないが。

講演は1時間半を超え、それに質疑応答が加わったが、あっという間に終わった感じがした。むしろ、行き帰りの電車に揺られている時間の方が、長く感じられたくらいである。

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信徒に恥をかかせないで

「台湾の声」というメールマガジンを購読している。活発に情報発信を行っており、メール数も多いため、興味のあるものだけを読むようにしている。そんな中、今日配信されたメールの中に、このような一文があった。「『カトリック正義と平和協議会』は、朝鮮総連の日本赤化組織であることが判明しております。」

調べたところ、このメールマガジンの読者数は6000人以上だ。それだけの読者にこの醜聞が送られたかと思うと、何とも恥ずかしかった。しかし、多少の誇張はあったとしても、すでに雑誌等で明らかにされていることである。身内の恥とて今更隠す必要もあるまい。信徒としては、批判の矛先が彼らにだけ向かうのを願うのみだが、都合が良すぎるだろうか。

カトリック聖職者の社会活動について

昨日の日記でカトリック正義と平和協議会について触れたついでに。

以前から、カトリックの司教や司祭が社会運動を展開することを、信徒として不愉快に感じていた。ただしそれは、私個人が敵視している左翼団体と連携していることに対してであって、運動をすること自体に対するものではなかった。

しかし今では、司祭職のあり方から逸脱しているという点で問題があると考えている。というのは、司祭はまず第一に、司祭にしかできないこと、つまり秘跡の執行のために叙階されており、司牧や社会運動は二の次のはずであるからだ。

司祭でなくてもできることは、ブラザーやシスター、平信徒に任せて、本来の司祭職を努めてほしいものである。もし口を出したいならば、生命倫理のような問題を論じる場に出てきて、堂々とカトリックの立場を述べればいいのだ。いつ起きるか分からない戦争に反対するよりも、明日にも闇に葬られるかも知れない胎児の命を気にかければいいのに、といつも思う。

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ロシアの奉献を求める署名運動

現在、ファティマ・センターでは、全世界の司教と一致して聖母の汚れ無き御心にロシアを奉献するよう、教皇ベネディクト16世に求める署名運動 Petition to the Holy Father が行われている。フォームに氏名や住所を書き込んで Submit ボタンを押すだけなので、是非ともご協力を願いたい。

この奉献は、聖母がファティマのシスター・ルシアを通じて教会に要請したものである。実現すれば、ロシアが回心し、平和が訪れることが約束されている。しかし、後にロシアを含む「全人類」とか「世界」という曖昧なかたちで何度か奉献はされたものの、その有効性は疑わしい。

日本の司教団は、世俗の社会運動家たちと手を結び、正平協(カトリック正義と平和協議会)の活動に熱心なようである。だが、彼らに本当の信仰があり、本気で平和を願っているのなら、ぜひとも率先して他国の司教に呼びかけ、教皇にロシアの奉献を求めていくべきだろう。また、その方がよほどカトリック的であるはずだ。

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本当のカトリック信徒ならば

クリスチャンの集まる掲示板には、ときどき未信徒が訪れて、どこの教会へ行こうか迷って相談を持ちかけることがある。カトリック信徒である私が居合わせれば、もちろんカトリックに誘う。プロテスタント側に勧誘する者がいると心中穏やかではないが、その信徒がそうするのは当然のことと理解する。

だが、中には違った反応をする者もいる。自分に合った教会を見つけるようアドバイスする人がいたり、その未信徒の書き込み内容から判断して、相応しいと思われる教派の教会を紹介しようとしたりするような人たちだ。善意からだとは思うが、その人がカトリック信徒であれば黙っているわけにはいかない。

エキュメニズムの影響なのか、最近は鮮明にしないようだが、カトリックの伝統的な立場は Extra Ecclesiam Nulla Salus すなわち「教会の外に救い無し」である。救いのための手段はカトリック教会にのみ豊かにかつ完全に備わっているからである。

一方で、「信仰のみ」「聖書のみ」を強調したプロテスタント教会は、その手段の多くを捨象してしまっている。正教や聖公会ではそれほどでもないが、やはり不十分である。そのような教会は、カトリックの立場からはとても奨められない。

本当のカトリック信徒ならば、まるでどの教派を選ぶかは好みの問題であるかのような態度は取れないはずである。にもかかわらず他宗派を紹介してしまう信徒たちは、そこでは行われないロザリオや十字架の道行きなどの信心行、とりわけ告解の秘跡の必要性をどのように感じているのだろうか。

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公教要理の製本

聖ピオ10世の公教要理詳解はかつて精道教育促進協会から出ていたが、今は手に入らない。インターネットで全文を読むことはできるものの、やはり本の形にした方が便利なので、印刷して自家製本することにした。

しかし、ワープロでフォーマットを整えたり、誤字を見つけては修正したりするうちに、何度か通読したような具合になってしまった。それでも、これから印刷製本するわけだが、しばらくは手に取らないだろう。いったい何のために製本するのやら。

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『信仰について』が再版

今日、四谷のドン・ボスコ社を訪れたら、教皇ベネディクト16世がラッツィンガー枢機卿時代に応じたインタビュー『信仰について』が再版され、店頭に並んでいた。私は知らなかったのだが、何でも教皇選出後1週間もしないうちに再版したらしい。今日の時点ではまだ Amazon でも楽天ブックスでも扱っていないが、ISBN コードは同じようなので、扱いが始まれば今のリンクのままで購入できるようになるだろう。

グレゴリオ聖歌に悪戦苦闘

今日はグレゴリオ聖歌を練習した。練習の前半から結構抑えていたつもりだったが、後半の30分くらいは声があまり出なくなっていた。特別高い音もなく、フォルテッシモもないというのに。

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四季の斎日

今日は四季の斎日に当たっていたので、大斎と小斎の両方を守っていた。そうするものと思いこんでいたからである。だが、家に帰ってみると、本によっては大斎だけであったり小斎だけであったりして、どちらが正しいか判然としなかった。もしかしたら不必要な節制をしていたのかも知れないが、過去に守れなかった日の分の埋め合わせと考えることにしよう。

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