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新教理省長官についての続報

今回、新しく教理省の長官となるレヴェイダ氏 Archbishop Levada だが、あまり評判がよろしくない。アメリカで大問題となった、司祭による性的虐待に対して、積極的に取り組まなかったことが原因だ。

実は、私が以前に紹介した本(Priest, Where Is Thy Mass? Mass, Where Is Thy Priest?)にも、それと関係することが書いてあったのだが、何しろ固有名詞までは覚えていられなかったので、気が付かなかった。

そのことを知ったのは、Free Republic という掲示板の、あるトピックでその抜粋を見つけたからだ。ハイト Fr Heidt という神父がその大司教に、同性愛者の司祭が数名いることを訴えようとしたら、相手にされなかったことが伝えられている。

P.S. Levada の表記に関して、まだ音声では聞いていないので確信が持てないが、私が見たサイトではご丁寧に leh-VAY-duh と読み方が記してあったので、それを採用してみた。「レヴァダ」の方が定着することも十分ありえる。

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新教理省長官はレヴェイダ大司教

ここ数日の噂では、新しい教理省の長官として、サンフランシスコ大司教のレヴェイダ氏 Archbishp Levada の名前が挙がっていたが、どうやら本決まりのようだ。やがて枢機卿に叙せられるであろう。おそらくメディアはレヴェイダ氏を保守派と報じることだろう。だが、伝統派カトリックのメーリングリストでは、典礼の乱れを放置し、ラテン語ミサに敵対的だとして、それほど評判がよくない。

P.S. 書き終えてふと思ったのだが、前任者のラッツィンガー枢機卿(現ベネディクト16世教皇)のように、ファンクラブが結成されることはあるだろうか。

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信徒なら読んでおきたいデンツィンガー

今日は俗に「デンツィンガー」と呼ばれる本を偶然借り受けた。それは、もともとデンツィンガーという名のカトリック神学者によって編集された、文書資料集である。これを読むと、信経や信仰や道徳に関して、これまでカトリック教会が何を決定し、何を排斥したかが判る。最近は、教会が伝統的に教えてきたことと正反対のことを教える司教や司祭がいるので、例え面と向かって反駁する機会がなくとも、そうできるだけの根拠を把握しておきたいと思う。

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教皇ベネディクト16世のニックネーム

先ほど入った情報によれば、イタリア人は新しい教皇のことを、Papa Ratzi と呼んでいるらしい。言葉遊びとしては面白いと思うが、いかんせん品が良くない。

教会は誰のものなのか

今や教皇ベネディクト16世となったラッツィンガー枢機卿。正統信仰を持つカトリック信徒からは歓迎されているが、そうでない信徒からは不満の声が挙がっている。選ばれた教皇によっては、その正反対の反応もあり得たわけだが、そうであっても、これはカトリック教会内の問題である。

だが、マスコミの論調からは、新しい教皇を「保守派」として否定的に扱っている印象を受ける。あるラジオのパーソナリティとコメンテーターは、非常に残念そうにこのニュースを伝えていた。どうも彼らにとっては、カトリック教会がその教義を捨て去り、この時代の価値観に迎合することが理想であるらしい。全く不愉快な口出しである。

ラッツィンガー枢機卿が教皇に就任

ドイツ出身で元教理省長官のラッツィンガー枢機卿が19日の投票で新しい教皇に選ばれ、ベネディクト16世を名乗ることになった。この日がドイツ人の聖人教皇レオ9世の祝日に当たっているのは、単なる偶然ではないように思われる。

今日は何の日

今日は、次期教皇の候補にも挙げられているラッツィンガー枢機卿の誕生日である。それにしても78歳という年齢は気にかかる。

邦人枢機卿の心得違い

昨日の読売新聞の朝刊に、次期教皇を選ぶコンクラーベを前にして、白柳・濱尾両枢機卿にインタビューした記事が載っていた。次の教皇はどのような人物が選ばれるべきか、どのようなことを期待しているか、といった内容であった。それを読む限り、教皇というものを国際的社会運動家か何かと勘違いしているとしか思えなかった。それは、教会というものを勘違いしているも同然ではなかろうか。おそらく、取材に応じた両枢機卿も、自分たちの立場に社会的使命を感じているのだろうが、それは本来の役割ではないはずだ。司教も含め、もっと信徒の霊的利益を考えなければならない。カトリック信徒として、非常に残念に思う。

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聖職者について

昨日は京都のキリスト教系教団の牧師が、少女に対する暴行の容疑で逮捕されたニュースが流れた。当然と言えば当然の反応だが、「聖職者とあろうものが」という論調が目立った。だが、この言い方には少し引っかかるものがある。だからと言って、「聖職者だって人間だ」という弁護を試みるのではない。私の疑問は、「彼は果たして聖職者なのか」、というものである。

カトリックから見れば、プロテスタントの牧師は聖職者ではない。それは、他宗派だから認めないというのではない。広義の聖職者ではあるかもしれないが、カトリックで言う聖職者とは似ても似つかぬものだということだ。実際、プロテスタント教会を起こしたルター自身が、聖職者と一般信徒の区別を否定していて、後の教会も概ねその見解を踏襲している。もちろん、礼拝を執り行うためには、相応の教育を受けた牧師が必要ではあるだろうが。

カトリックの司祭は、「もう一人のキリスト」として神に犠牲を捧げる存在である。その聖なる役割のために召されたのであって、司牧活動は二の次である。だから、単なる模範ではない。このような聖職者意識を持つならば、その役目にふさわしい生活を送らなければならないのは当然のことだ。だからと言って不祥事が全く起きないわけではないが、起きにくい環境にある、とは言えるだろう。

しかし、このような聖職者意識を保つことは、典礼改革のために難しくなっている。1969年から導入された新しいミサ(と言っても、もう30年以上の歴史があるが)は、かなりの程度プロテスタントの礼拝に近づいた。ミサにおける犠牲の概念も後退した。犠牲がなくなれば祭壇はなくなる。その代わりにテーブルが置かれ、司祭はまるで食事会の座長のように会衆と向き合うことになった。この様式でミサを続ければ、司祭の意識は、信徒の代表となんら変わらないレベルまで落ち込みかねない。それは、カトリック司祭のプロテスタント化である。

実際のところ、カトリック教会でも、神父による少年少女の性的虐待が頻発し、酷いところではその賠償のために教区が破産したという。それは典礼改革による聖職者意識の変化と無縁ではあるまい。何であれ、事件の責任はそれを起こした本人が負うものではあるが、聖職者としての自己限定を難しくする環境があるということも、問題解決のためには考慮されなくてはならない。

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教皇ヨハネ・パウロ2世帰天

日本時間の今朝未明、カトリック教会の指導者である教皇ヨハネ・パウロ2世が亡くなった。以前から病状が刻々と伝えられていたので、ある程度覚悟はしているつもりではあったが、そのことを知ったときはやはりショックであった。

報道については、インターネットのニュース記事に目を通した程度だったが、自分が見た限りではその社会的功績を讃えるものが多かった印象を受けた。だが、人間社会でいかに評価されようとも、神の前では全く意味を持たない。

聖職者にとって大切なのは、霊魂の救いにどれだけ寄与できるかである。そのような意味では、どのように裁かれるか心配な点もないではない。せめてもの慰めは、ヨハネ・パウロ2世の救いのために、世界中の信徒が祈りを捧げているということである。

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